5月27日、芋坂を上がって谷中墓地にはいった。
ちょうど歴史散策ツアー?の団体に出くわした。
本当に好きな人は一人で歩くのではなかろうか。彼らの見ている墓は鏑木清方。これは通りに面しているので、以前探すつもりがなかったのに偶然見つけて知っている。
谷中墓地は谷中に住んでいたころ(1978年から80年)初めてきた。
当時、電車に乗るときは日暮里駅であったが、墓地に来たのは5回もない。学生時代は歴史や昔のことに興味がなく、気まぐれで通ったことがあるくらいで、中はしっかり歩かなかった。
一度中を歩いて迷ったことがあった。
出口を探しているうちに、古い石塔が並ぶ場所に出た。倒れている塔もあり、桐の木があって草が生えていて、夕方で、誰もいなくて、不思議な場所だった。
それから数十年、その場所はなくなってしまった。しかし、また迷えばそこに行かれるのではないか、と何回か入ったが、あの場面には出会えず、もう迷うこともない。
今回も墓地の中はどこも明るく、あのような景色はなかった。
塔が並ぶ伊達宗城の墓。伊予宇和島藩主。松平春嶽、山内容堂、島津斉彬らとともに幕末の「四賢侯」と言われた。
塔が並んでいる。
石の感じは記憶に近いが、かつて見た幻の墓域は通路と同じ高さで、もっと広々していた。数十年の間に盛り土して、設置しなおし、通路側に他の墓を持ってきたとも思えない。
葵の御紋が彫られていて、俊徳院、貞章院、とか読める。
帰って調べたら清水徳川家の墓らしい。
俊徳院は清水家祖、徳川重好のこと。9代将軍家重(吉宗長男)の次男。
ちなみに田安家祖は吉宗の次男、一橋家祖は吉宗四男。
帰ろうと思って交番の近くまで来て何気なく横を見たら
島薗家之墓
とある。千駄木の島薗邸は登録有形文化財になっている。
東大医学部教授、病院長を務めた順次郎と順雄、安雄ら息子たちの名が墓碑に読めた。
何回もここを歩いているのに、この日初めて気が付いた。
谷中墓地の楽しさは、こうして何気なく歩いていて有名人の名を見つけることである。
もちろん知識がないと通り過ぎる。
これから死ぬまで、何回散歩するかわからぬが、知識を増やせば増やすほど、墓地は楽しみを与えてくれる。
で、交番のある交差点。
谷中墓地の中心であるが、ここもいろいろある。
まず交番の対角線の角。1,2年前に偶然気が付いた石黒家の墓。
なんとわきに
昭和二年三月
石黒忠悳之を立つ
とある。
医学史を調べていて常に出てくる人物である。
忠悳は子爵1845- 1941、軍医総監として明治の軍医制度を確立した。
この向かい、ぎんなん通りに沿って十字路から順に
杵屋(中村)勘五郎(1815-1877)江戸長唄家元
2つ目が浅井梅治郎(千駄木の植木屋、団子坂菊人形の仕掛け人)
3つ目は非常に目立つ石柱、医学史を学んだものなら誰もが知る佐藤尚中。
佐藤泰然の養子、佐倉順天堂の第二代堂主。
何年前だったか、谷中墓地で私が初めて人名を見たのは、この墓である。
途中で修復されているが、震災で折れたのかな?
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