飛鳥をなぜアスカと読むか?
飛鳥は「飛ぶ鳥の、アスカの ~ ~」とアスカの枕詞だった。
(あの地域をなぜアスカというかは諸説ネットにある)
いつも飛鳥と明日香(万葉仮名)がセットで出てくるからいつからか飛鳥をアスカと読むようになったとか。
1956年、阪合村・高市村・飛鳥村が合併して明日香村ができた。
だから自治体、地区としては万葉仮名の明日香である。普通に読めるから正しい選択だと思う。
しかし我々は明日香など知らず、中学校以来ひたすら飛鳥だった。
歴史、美術では飛鳥だから。
さて、3月16日、K氏の運転で
橿原神宮、神武天皇陵から国道168号を南下、明日香観光地区の一番南、キトラ古墳に来る。
広い駐車場は無料だった。
(ふつう橿原、明日香とも500円)
土曜というのにほとんど客はいない。
二人いらした暇そうな係員の誘導のまま、歩いて来た道路の下をくぐると半地下に作られた立派な施設があった。
キトラ古墳壁画体験館「四神の館」。
入場無料なのにとても充実している。
パンフレットを見れば国営飛鳥歴史公園になっている。
なるほど、国営か。いろんな疑問が氷解。
2019-03-16
石室のレプリカは大きさ、色だけでなく、壁画の傷み具合、漆喰のはげ具合まで忠実に再現してあり、中に入ってボランチアの方の説明を聞く。
お客があまりいないから、何でも聞ける贅沢さ。
四神はどれも右向きだった。描いた人は左利きだったのだろうか。(後で見た高松塚は青竜が右向き、白虎は左向きでともに入り口を見ている。)
四神の他に獣頭人身の十二支神(こちらは全部左向き)、天井には本格的な天文図(星座)。
K氏は外で他のパネルを見ていた。
何回も来て何回も聞いた説明だろう。
ところで、なんでキトラというんですか?
と尋ねると、
「~、~と、説が二つあって、どちらか分からないから漢字でなくカタカナなんです」。
するとそれまで黙っていたKが
「ああ、そうでした。前にも聞いたんですけどいつも忘れちゃうんです」と笑っていう。
Kらしい。学生時代と全く変わっていない。
しかし、はて、今ここに書こうとして自分も忘れてしまった。
一つは、誰かが覗いたときに正面奥の玄武(カメ)と左の白虎(トラ)がみえて亀虎(キトラ)といった説、もう一つの説(こっちが本命)が何だったか・・・・
本物の壁画は漆喰ごとはがし、現在保存技術の粋を集めて修復中とのこと。
ここは壁画の修復、保存、展示する施設であり、
二階(地上部分)の展示室に上がると(現在展示はしていないが)職員らしき人が修復作業の説明をしてくれた。
そのまま外に出て古墳を見に行く。
芝生が敷かれ、きれいに整備されている。
発掘される前は木が生えていて、とても古墳に見えない。
このあたりの山はこんな墳丘があちこちにあったのだろう。
なお、ここに来た日の二日後、3/18、
文化審議会がキトラ古墳壁画を国宝に指定するよう文部科学相に答申した。
壁画は2018年10月に重文に指定されたばかりだった。
それにしてもこれだけの大造成をしたら、工事中いろんなものが出て来るのではあるまいか。丁寧にやればキリがないから目をつぶってブルドーザーを動かしたのかな?
この右下あたりが壁画体験館「四神の館」である。
半地下にしたから景観を損なわない。素晴らしい。
国が買って管理しなければ、あちこち駐車場と土産物店、看板が乱立、観光客も畦道に大渋滞していただろう。
展望台から畝傍山を見る
この日は朝、みぞれだったから彼が気をきかせて持ってきてくれた上着。
暖かかった。
次に高松塚古墳にいった。
駐車場から最初に飛鳥歴史公園館に立ち寄る。
名前からして、地区全体の管理、案内センターのようだ。
ここも来た道路をくぐり古墳方面に歩くようになっている。
明日香と言えば、リュックを背負った大量の観光客が狭い道を渡ったり田んぼ道の端を歩くものと想像していたが、全体がテーマパークになっているのは国が計画的に造成した結果である。
昔ながらの田園風景がなくなってしまったのは残念だが、乱開発されるよりましだろう。
谷が芝生の広場になっている。
多分国有化されるまでは地元の水田であったのだろう。
国営飛鳥歴史公園は、意外と古く、高松塚で騒がれる前の1971年から事業着手、順次開園した。
1.祝戸地区(1974)
2.石舞台地区(1976)
3.甘樫丘地区(1994)
4.高松塚周辺地区(1990)
5.キトラ古墳周辺地区(2016)
の5か所に分かれ、全部で60haある。
いくらかかったか知らないが、いいお金の使い方である。
明日香村農民の売却希望地を全部買い占めればよいが、そこまではお金がないか。
さて、田んぼの跡地を過ぎ、坂を上がって回り込むと高松塚。
その手前に壁画館。
入場料は石舞台、亀形石造物と合わせて600円。
鎌倉時代に盗掘にあっているらしい。
石は大きくて動かせず、こんな小さな穴でもあけるのがやっとだったのだろう。
なお石室は加工しやすい凝灰岩で、西の二上山のもの。
高松塚の壁画は新聞に載ったのを覚えている。
1972年3月21日発見、新聞が26日というから、2月の連合赤軍あさま山荘、札幌オリンピック笠谷の翌月、私の高校入試の合格発表のあとである。
私が写していたものは下の写真。
こういうものに興味がある。
彼は全体を取っていて送ってくれた。
次は石舞台へ。
駐車してから昼食。
二人で古代米のランチは自撮り棒で写す。慣れてきていい笑顔が撮れた。
思ったより大きい。
ボランチアの人の説明によれば、もとは土を被った古墳だったそうだが、かなり昔にはがされ裸になったようだ。
葬られた権力者(蘇我馬子?)に恨みを持つ一族によるものか、あるいは単に農民が土を畑にばらまいたのか。
国営公園になる前、 昔は周りが畑だった。
石だけでなく、古墳の規模としても大きい。
飛鳥の石造物は高取城などの石垣に持っていかれたというが、これだけ大きいと運べなかったのだろう。
大きい。
田辺戸田のモニュメント天命拓新の作者はこれをみて作ったのかもしれない。
あちらはカマクラ、こちらは部屋であるが。
これら巨石は3㎞ほど上流の多武峰から運んだ花崗岩という。
その大勢の人夫の働く様子がアニメというかCGになっていて、Kに勧められるままゴーグルをつけた。
VRというか、顔を動かし足元を見れば上空から古代人が巨石を運んでいるのが見える。
短時間だが面白い。
次は亀形石造物へ。
2000年に発見された新しい遺跡。
すぐ上の山にある酒船石と関係あるのだろうか。
なお、酒船石は無料だが、ここは有料。
有料と無料の基準がどうもわからない。
ボランチアの人は説明しているうちに「あなた方はどういう人か?」と言われた。
私も古代史には少しうるさいが、ほとんど黙って聞いていたKはたまにする質問が風貌に似合わず鋭い。
その飛鳥時代の知識の源は、里中満智子『天上の虹』(持統天皇を描いた全23巻)らしい。マンガは馬鹿にならない。
かくいう私も源氏物語の知識の多くは大学受験のときではなく、90年代になって読んだ大和和紀『あさきゆめみし』から得ている。
酒船石は「坂道はしんどいから」とKは麓で待っていて私だけ急いで上がってみてきた。
山の中腹に、何の囲いもなく、昔から子供たちが乗って飛び降りて、遊んできたかのように無造作にあった。
手塚治虫「三つ目がとおる」を思いだす。
明日香で一番見たかったのは実は壁画などではなく、大和三山だった。
前もって彼に伝えていたので、甘樫丘に連れて来てくれた。
展望台への遊歩道はそれほど急ではないが、飛鳥川側が崖に近い急斜面になっている。鹿児島の城山を思い出した。この独立高地の地形は何だろう。
耳成山と天香久山
耳成山は登っても森で何も見えなかったと彼は言う。
こちらは朝立ち寄った畝傍山
さすが、巨石文化の飛鳥。贅沢なゴミ箱
そろそろ帰るのに奈良駅に送ってもらわなくてはならないのだが、最後、車を少し戻してもらって伝飛鳥板蓋宮跡にいった。車が入れないので彼は待ち、私だけあぜ道を急いだ。
ハイキングにいいように簡易舗装されている。
昔は春にフキノトウやタンポポ、秋は曼殊沙華など咲いたのだろうか。
中大兄皇子、中臣鎌足らのクーデター(乙巳の変)の舞台とされる。
すなわち蘇我入鹿が暗殺され大化の改新が始まった。
明るいうちに奈良駅を出たかったので、このくらいにして帰路についた。
短時間であったが、効率よく回ってもらい、大事なところだけでもしっかり見られてよかった。彼に感謝してもしきれない。
JR奈良駅を16:20に出発、関西本線経由で名古屋にでて、20:30のぞみに乗った。
新幹線車中にて。
明日香の地図を見ながらどら焼きを食べる。
明日香から一路、奈良駅に向かう途中、國枝卓が突然
「そうだ、どら焼き持ってきたんだ。食べよう」といった。
ふるさと納税でもらったらしい。
運転中の彼に代わって後ろの席から取り出し、袋を破いた。
5個入っていた。
ハンドルを放せない彼に、「一口ずつ口に入れてやろうか?」と笑いながら聞いたら
「いいよ」と、片手でとり、各自一つずつ美味しく頂いた。
車で混雑する奈良駅であわただしく降りたとき、
「そうだ、あと一つ電車の中で食べなよ」と急いで手渡してくれたものだ。
どら焼きの味にも宿る彼の友情に感謝しつつ、のぞみは東京に向かった。
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