2017年4月14日金曜日

第46 最古の薬学部はどこか

薬学昔むかし  第46話

薬学雑誌1887年度376頁から

近年千葉大では大学院に薬学府という呼称を使っている。九大では大学院をさらに薬学府と薬学研究院に分けた。同じ研究室にいる卒研生は薬学部ということだから高校生や一般人には分かりにくい。別に新しい名前を作らぬとも、大学院は薬学部の付属で良いではないかと部外者は思うだろう。
(これを書いたのは2009年だったが、2017年の今もこう呼んでいるようである)


さて、もっとも一般人が馴染んでいる薬学部という言葉はいつからか? 
東大の薬学は80年以上医学部製薬学科、薬学科であり薬学部ではなかった。学部として独立したのは昭和33年である。古い薬学専門学校も校内に薬学しかないのだから薬学部という呼称はありえない。してみると薬学部という言葉は意外と新しいかもしれない、と思ったら、明治20年の薬誌に見つけた。後の地区通信となる「雑報」の欄。
「本郷湯島なる済生学舎にては今般あらたに薬学部なるものを設置し、その学科を4期に分ち毎期を6ヶ月と為す」。


済生学舎は医師国家試験のための予備校だった。
明治政府は、富国強兵策の一環としてドイツ人医師を招き官立医学校(東大)を建てたものの、たった1校であり、少数エリート教育による官吏、研究、教育者の養成に向かってしまう。一方で、それまで無免許であったわが国の医師について今後、西洋医学を学び国家試験に合格したものでなくてはならないと規定したため、庶民の病苦に応える医師の育成に大きな問題を生じた。


その結果、各地で試験のための医学予備校が設立され、とくに明治9年、長谷川泰によって設立された済生学舎は、受験希望者を多く集めた。東京にあって無試験でいつでも誰でも入学でき、しかも医術開業試験と同じドイツ医学を学んだ東大医学部関係者が講師に来ていたからだ。この学校は明治36年に廃止されるまで全国最大規模を誇り、吉岡弥生、野口英世はじめ9000人以上の試験合格者を出した。医師全体は4万3000人(明治25)、うち新しい西洋医は半数程度と考えられるから、この予備校の明治医学界への影響は大きかった。


済生学舎薬学部はもちろん薬剤師開業試験のための受験予備校である。第一期、第二期の生徒各60名を募集した。束修金2円、月謝1円、講堂費30銭とある。この年、薬学雑誌は1冊8銭、12冊は前納90銭だった。

長谷川泰という人物は薬学と縁が深い。薬学雑誌創刊号にも祝辞を寄せているし、医薬分業運動(第94-96話)をつぶそうとした医師たちの中心にいたのも彼である。


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