(続)5月5日、日本橋から奥州日光街道をゆく。
タイトルは、吉原を目指したという意味でなく、道中たまたま立ち寄った吉原まで書いたという意味。
10:51
東京市道路元標の柱と日本国道路元標の複製(左)。
本物は橋の中央にあるらしい。
1,4,6,14、17,20号の起点である。
全国各地までの距離が書いてあった。
10:58 日本橋三越を南から見る。
室町三丁目南の交差点を東へ右折。繊維問屋街であるが、閑散としている。
第一三共本社(クスリ博物館)の角で高速道路も走る昭和通りとぶつかった。対岸に渡れないので旧街道から離れ、並行する江戸通りへ。現在は広いこちらが6号、4号になっている。
11:04
現在の4号はここから昭和通を上野に向かうが、6号、14号は江戸通りを直進、浅草橋に向かう。
11:16 浅草橋。
ここで14号が分かれ千葉に向かっている。
かつては奥州街道、水戸街道が外堀を渡る橋だったから、戦略上も重要な地点であった。浅草見付はどんな感じだったのだろう。
11:16
浅草橋から柳橋方面を臨む。神田川と隅田川の合流点である。
11:32
駒形橋。向こうにスカイツリーとアサヒビール。
11:36
東武浅草駅と神谷バー。今は多くの人にとって一度来ればいいという程度の観光地だが、戦前は新宿のような大層な盛り場だったと思う。
ここから隅田公園にかけて人力車が多い。
どういうわけか、車夫は皆ハンサム、体格よく、好青年っぽい。
女性客に明るく説明しながら、シャッターを押してあげていた。
奥州日光街道は言問橋西詰から川を離れる。
しばらくいくと山谷掘の跡が公園になって斜めに走っている。
せっかくなので奥州街道をちょっとはずれてこちらを通る。
かつては吉原通いの猪牙舟が行き交った。それこそ日本橋の若旦那などは柳橋あたりから隅田川をのぼり、今戸からこの堀川に入った。
牡丹載せて今戸へ歸る小舟かな 子規
ここまで来たついでに天丼で有名な伊勢屋で食べようと土手通りに出る。むかしは今戸から箕輪まで、山谷掘りの南に土手があり、1927年に壊されたらしいが今も日本堤という地名が残る。
11:50であったが、この行列。入口が西向きなのに、2回曲がり、東の裏通りまで続いていた。最後の人はいつ食べられるのだろう?
11:52
伊勢屋は吉原大門のそば。ここで船を上がると堤に柳があった。帰りにまた見るから見返り柳。
11:59
大門から吉原に入る。
ここに来るのは3回目。ただし、いずれも歴史見学で歩いただけである。
ソープランドのあちこちに客引きのお兄さんが立っていて写真撮影はできず。
中央の通りを行くと右に吉原神社。
この一角だけ観光客。
12:02
12:03
狭い境内に吉原変遷図がある。以前じっくり見た。5つの時代の店の名前が分かる。町の区画、性格など江戸、東京で最も変化の少ない地域かもしれない。
12:04
都立台東病院は、1911年警視庁が設置した性病専門の吉原病院である。梅毒や結核にかかった遊女たちはここに運び込まれそのまま死んだ者も多かっただろう。いまは普通の都立病院。
12:05
吉原観音。通りからは背を向けている。ここに弁天池があり、関東大震災で火に囲まれた遊女らが池に飛び込み、490人が焼け死んだという。
石柱に刻まれる寄付者に女性の名も多い。
下図を見ると池はひょうたん型であったようだ。
東京市15区分全図(東京逓信局 明治44)浅草
12:12
四角い吉原遊郭のお歯黒どぶの跡をとおると(ここは西北の一辺)、内部が一段と高くなっているのが分かる。江戸時代に田んぼの真ん中に堀で囲んで造成した痕跡か。
「その2」の走行距離は7.4㎞
0 件のコメント:
コメントを投稿