千駄木菜園 総目次
つまり、サルファ剤を日本人が知ったのはいつか?
そして国産第一号はいつ、どこが出したか?
最初のサルファ剤、プロントジルは戦前の
1932年11月にバイエル(IGファルベン)で合成され、
12月に特許申請されるも秘密にされた。
1934年12月、特許成立、公開
1935年2月、ドーマクが論文発表、世界の知るところとなる。
隣国パスツール研のフルノーなど、もともと関心のあった研究者はすぐ動き始め、
1935年5月 早くもプロントジル合成に成功
すぐに誘導体の合成、試験に入り、11月にはバイエルに先駆け、スルファニルアミドに薬効があることを発見した。
こうした状況で日本にはいつどのように伝わったか?
1935年は昭和10年、もちろん航空機はあった。羽田から江の島までの遊覧飛行もあったようだが、航続距離は数百キロで、遠距離の定期空路はなかった。ゆえに欧州からの雑誌や人は船できた。
明治からずっと続いている薬学雑誌でサルファ剤の記事を探してみる。
1935年前半には何の記事もない。
ちなみに1935年2月号の表紙裏の広告は、ドイツ、カール・ツァイスの顕微鏡である。
このころは明治時代と違って、地区通信とか外国論文紹介などのコーナーがなくなって、論文ばかりになっている。ニュースが取り上げられにくい雑誌になってしまったのが残念である。
1935年後半6冊にもサルファ関連記事なし。
8月号に久しぶりに論文紹介のコーナーあるも1934年の雑誌ばかりであった。
12月号の総索引にもなし。
1936年
4月号に第56回総会(4/11,12)の記事。学術講演会77題のタイトルに、サルファ剤関連演題なし。第17回薬学会薬剤部長会(4/10)でも報告なし。
12月号の索引でもなし。
1937年
4月、総会の学術講演会69題になし。
5月、はじめてサルファ剤の記事
この論文は内務省東京衛生試験所製薬部(近藤部長)の板井、尾島、矢澤らによるもので、新規化合物8種を含む10のスルファニルアミド誘導体を合成している。
この1報の後はなし。
ところが8月号の表紙裏に第一製薬からテラポール(スルファニルアミド)の広告が出ていた。
薬学雑誌に記事はなくとも、国内研究者、製薬会社は、だいぶ早くから情報を得て製造していたと思われる。ちなみにテラポールの第一製薬はネオ・ネオ・サルバルサンの広告も出していた。
薬学雑誌は、植物成分の研究が多く、パパベリン(菅沢ら)、マトリン(近藤、慶松、津田ら)、サポニンや地衣成分(朝比奈)らの記事が目立った。彼らは根っからの研究者で、感染症で死んでいく患者を診ることもなく、自分の研究に関係ないサルファ剤など関心なかったのだろう。
(続く)
20170724 サルファ剤の日本登場5・英米との比較
20170722 サルファ剤の日本登場4・製薬メーカーの動き
20170721 サルファ剤の日本登場3・医師はいつ使い始めたか
20170720 サルファ剤の日本登場2・東京医事新誌
20170715 サルファ剤の日本登場・薬学雑誌
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