鴎外は明治21年9月、ドイツ留学から帰国、陸軍省に復帰と同時に旺盛な執筆活動も始めた。文芸評論、翻訳にいそしみ、読売新聞などにも執筆した。医学関連の投稿先は東京医事新誌が多かったという(森まゆみ『鴎外の坂』)
東京医事新誌は、「薬学昔むかし」を始めるとき、明治初期の、最も古い雑誌として、明六雑誌(1874)、学芸志林(1877)東洋学芸雑誌(1881)、順天堂医事雑誌(1875)、東京薬学新誌(1878)などと一緒に調べたことがある。
この雑誌は、明治10年(1877)、太田雄寧が創刊、わが国最古の雑誌の一つである。週刊の医学雑誌として確固たる地位を保っていた。
昭和初期の体裁は
・原著実験及総説のほかに
・臨床講義、
・輓近診療界の話題、
・雑纂、
・会報(の告知)、
・抄録(学会などの要旨)、
・海外医事時報、
・雑報
など幅広い。
幕末以降の医学者列伝などという連載読み物もあって、今読んでも面白い。
さて、ちょうど先月から戦前のサルファ剤を調べるのに東京医事新誌をめくっていたので、鴎外を意識して、古いものを読んでみた。
鴎外の帰国が明治21年9月8日である。
その1週間後に発行された546号には、もちろん彼の論文はないが、東京通信の欄に前年欧州へ出張した石黒忠悳軍医総監の帰国記事がある。
橋本綱常、佐野常民、長谷川泰らが出迎えた横浜港、西周、高木兼寛ら300余名が出迎えた新橋駅での様子の末尾に「また、官命を奉じて留学せられたる陸軍一等軍医森林太郎君も同軍医監とともに帰朝されたり」とある。
早くも9月29日発行の548号には巻頭に「暗渠水中の病原的有機小体説」が載った。
その後、頻繁に執筆し、年明けて主筆、編集人となったらしい。562号(1/5)に「寸鉄学士」、563号(1/12)に「瘈狗毒種接院を開くの記」(パスツールの狂犬病ワクチンの話)を「漫録Feuileton」欄に著し、次の564号(1/19)からは巻頭に「緒論」欄を作って主筆として毎号この欄を埋めた。
この間、恐るべきエネルギーである。
なぜなら帰国直後の9月12日に舞姫エリスのモデルとされるエリーゼが来日、大騒動の後、10/17に帰国。そのあと赤松則良の娘、登志子との縁談がすすみ、年が明けた1月に千住から根岸(御隠殿坂を下りてすぐ)に引っ越し、2/24結婚と、あわただしい毎日であるうえ、もちろん将来期待される陸軍省医務局での仕事をしたうえで、同時に文芸評論や翻訳を精力的に行い、読売新聞にコラムを書いていたからである。
鷗外は1年で主筆の座を追われた。
内容が自分の専門(衛生学)に偏っていたからとも、帰朝後の若く、高ぶる心のままに日本医学会の現状(長老たち)を批判したからとも言われる。
彼の文章は格調高いと言われたが、私には難解というだけで、ほかの人の書いた雑記事のほうがはるかに読みやすい。
東京医事新誌は、1940年、戦時体制下に入り、3197号を最後に、当局指導により「健康保険医報」と合体し、「日本医学及び健康保険」と改題した。
1948年7月20日、月刊誌として東京医事新誌3198号として復活したが、1960年(昭和35)廃刊に至る。
板橋区の医療法人社団雄寧会太田眼科医院は、雄寧のご子孫のようである。
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