2017年8月20日日曜日

染井霊園2・坪井正道先生の一族

今日染井霊園に行ったが、いつも通る坪井家の墓は寄らなかった。

初めて染井霊園に来たのは2001年12月、息子を中学入試の模試会場となった本郷学園に連れてきたときだが、全く記憶がない

はっきり覚えているのは2012年である。
学生時代近くに住んでいた谷中墓地と違い、ここは学生時代はもちろん、その後も来る用事がなかった。
2012年秋は、ちょうど巣鴨駅前のダンス教室で習っていたので、ついでに寄ったのが実質的な最初である。

そのとき撮った写真は2枚だけ。
坪井家である。
箕作家と同じように幕末からの学者一族として知られる。
2012-11-23撮影
(クリックすると拡大する)

左側に並ぶ3墓石のうち、一番右、誠軒とは、坪井信道(1795-1848)の号である。
蘭方医として文政12年江戸深川に蘭学塾安懐堂を、ついでに天保3年、日習堂を開いた。天保9年長州藩医となり、兵事にも関与した。

坪井信良(1823 - 1904)は、信道の娘と結婚、入り婿になった。蘭方医として幕府奥医師となる。(真ん中墓石)

坪井正五郎(1863-1913)は、その信良の子。小金井良精とともに我が国人類学の開祖。
(一番左の墓石)

坪井誠太郎(1893 - 1986)は、正五郎と蘭学者箕作秋坪の長女・直子の子。地質学が専門。地球物理学者の坪井忠二は実弟。

坪井正道(1925 - )は、坪井誠太郎と天文学者・平山信の長女、百合の子、物理化学者。上の写真右の、誠太郎の墓として先祖代々の墓石を建てられたようである。
信道、信良、正五郎、誠太郎、正道、と5代目になる。
 2012-11-23

駒場から薬学に進学して、最初のころの授業に坪井正道先生の物理化学があった。量子化学、分子構造と分光学を講義されたが、面白かった記憶はない。
1つだけ覚えているのは、IR,UV,NMRのスペクトルの形のことである。
吸収波長は量子化されているから、本来はスペクトルは鋭い吸収線の集合、すなわち櫛の葉のようになるはずだが、各分子の環境ひいてはエネルギー準位がそれぞれ微妙に違うから、分子の集合体を観測すれば、線幅が広がってしまう。
すなわち櫛の歯ではなく、波というか山脈のようになると。

同じように、分子の挙動、形は量子化されているが、我々が生活で実感する物質は莫大な分子の集合だから、連続した現象、形になってしまう。当然その中間もある。
当たり前だが省略してはいけない話だ。

先生はこのことについて、たった一言しかおっしゃらなかった。
当時、大学の教授は研究がメインで、今のように学生への講義で懇切丁寧な人はほとんどいなかった。講義が分からなかったら学生の頭が悪い、ということで、各自、苦労しながら勉強したものだ。

初めて染井霊園に行ったとき、ここへ真っ先に行ったのは、かつて教わった人の先祖の墓だったから。
墓地の中で唯一墓石の写真をとったのは、彼の研究室を卒業した友人小林松男君に見せるためであった。


2021-02-02追記
節分の日、坪井先生は2020年7月16日亡くなられたことを知った。
95歳。現役の時のご自宅は文京区本駒込2丁目(学者町として知られる旧曙町)であったが、最後はどちらにいらしたのだろう?


0 件のコメント:

コメントを投稿