薬学雑誌 1912年度(明治45年) 204頁
第52話で、薬界元勲、もと日本薬学会副会頭、東京帝国大学医科大学教授、下山順一郎の死去の様子を紹介した。
明治22年薬学会で副会頭職を置くことが決まって以来、毎年選挙をするのだが、常に7~9割の票を集め、長井会頭とともに薬学をリードしていた。
その大きさは葬儀の様子でしのばれる。
葬儀委員長は丹波敬三。
下山家は代々、富士派日蓮宗の熱心な帰依者で、戒名は経文中の薬品に関する語句を採ったというが、叢林院殿一雨日潤居士。
2月16日午後正1時、下根岸の同邸より出棺。
前日の降雨のため道路泥濘甚だしきに拘らず、稀有の盛典にして会葬者1700余名に達し、葬列十余町に亘る。先頭は大学助手たる4学士、同薬学科学生の一隊これに次ぎ、数120余りに及ぶ造花、生花、花輪、放鳥の列が続いた。
勲章は近藤博士ら4人が捧持、棺側には長井、丹波、丹羽、田原、山田、高橋(三)、池口の7薬博、羽田一等陸軍薬剤正、高橋順太郎、近藤継繁両医学士らが徒歩扈従。
(中略)
列の殿として東京薬学校生徒一隊、神谷学士の指揮のもと随従せり。3-4kmほど離れた本所常泉寺に行列が着いたのは午後2時40分だった。
弔詞70、弔電300数十通。
弔詞は浜尾新・帝大総長、台湾総督時代に下山と親しんだ後藤新平、薬剤師会代表の資生堂福原有信ら11人だけ朗読してもらった。
友人代表の丹波敬三に至っては、ともに東大薬学本科の第一回生にして新制東大の初代教授になるなど、40有余年、つねに進退をともにした間柄とて、朗読半ばにいたりて感極まり遂に流涕嗚咽、読む能はず。満場また1人の泣かざるものなかりき。
このあと残りの弔詞は朗読省略、仏前に捧呈するのみとなった。
しかし、時間切迫のため11人まで行ってから残り48本は、高橋(秀)博士がその連名を朗読して一括捧呈せり。
葬儀おわりて、棺は町屋の火葬場に送られ、同夜ついに一片の煙と化す。
なお下に明治40年の下谷、浅草周辺の地図を示す。
根岸は左上、日蓮宗常泉寺は隅田川の向こう、右下に小さく赤く見える。
当時は吾妻橋(右下にあるはず)しかなかったようだ。
今なら言問橋(竣工1928)を渡ればすぐだけどね。
夫人は大和の柳生但馬守(明治後子爵)の息女である。
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