2017年9月23日土曜日

開成の文化祭と校舎の変遷

今朝、西日暮里の駅に向かっていたら開成の前に人がいっぱい。
ああ、文化祭か。
ここは運動会、文化祭、入学試験、の年3回、小学生を連れた母親、夫婦で開門前の行列ができる。少子化でどこの私学も苦しんでいるとき、ここは関係ない。

駅の改札から学校まで十分な数の学生が立って案内している。
校門から歩道橋を経て駅までふん詰まりに人がつながるのを防ぐために、中学西側の日暮里渡辺町、住宅街の方へ列を誘導していた。(年によって歩道橋を直進させ、尾根側の住宅街に誘導することもある)。
ここは何でも生徒たちが自分たちで計画してやる。
先生は楽だろうな。
一般に、できる子は何でもできてしまう。
8:46
中学受験まであと4か月か。
すれ違うお母さん方が若い。そしてきれい。
自分の年を感じる。
運動会を見に行ったのは、2002年だからもう15年もたっている。

開成の東大合格者は、都立高校が没落してから一気に増えたと思われているが、実は明治初め、高橋是清校長の共立学校時代のほうがすごかった。
1879(明治12)、旧制一高の前身、大学予備門(定員466名)つまり東大予科へ実に112名の合格者を出して、全国に知れ渡った。正岡子規、秋山真之が松山中学を中退、明治16年上京しここに入ったことは坂の上の雲で有名だ。森まゆみ氏は彼らの学籍簿を開成で見せてもらったとエッセイにあった。
関東大震災後に神田淡路町からここ道灌山に移ってきた。

この辺りは好きなので、引っ越して来る前から、たまに歩いた。
人が誰もいない田端駅南口から出て、崖下の線路と電車を左に見ながら、尾根道を南に行くと開成のグランドに出る。
グランドを西に回り込むと下り坂。途中にある向陵稲荷神社は、秋田藩、佐竹右京太夫の屋敷の邸内鎮守だったそうだ。坂はグランドと中学校舎の間にあり、木々の間から中学の授業を覗くことができる。
降りると日暮里渡辺町。
ここは豪商明石屋、渡辺治右衛門が”佐竹が原”を購入、大正5年に宅地開発した所で、周辺があぜ道を残して家が乱立したようなのと対照的に、道が整然としている。野上弥生子、石井柏亭ら文化人が住み、子供を誠之小学校まで越境通学させる家も多かったとか。
しかし戦災、代替わりなどで現在は大きな家はあまりない。

古地図で開成周辺を見ようと思ったが、ここは1932年の荒川区成立まで北豊島郡日暮里町で東京市内でなかったから、明治大正の古地図には載っていないことが多い。国会図書館デジタルライブラリーの「東京市及接続郡部地籍地図」(大正元年)にも、線路の東や南の諏訪台、北の田端はあるのに、なぜか、ここだけない。
そこでgoo地図の航空写真をみた。

昭和22年
校舎の南、大通りに面したところがグランドになっている。
そして校舎の北、今のグランドのところが宅地のようになっている。
空襲のあとなのか、はっきりした建物がないが、校地には見えない。
また中学校舎がない。
開成は戦後になって土地を購入、拡張したのだろうか?


昭和38年
敷地は、ほぼ今と同じ形になっている。
中学のほうは、校舎が北、グランドが南と、今と逆になっている。
大通りに面したところに校舎はない。



20:24
帰宅途中に前を通った。
20時を過ぎていたが、中では明日の準備をしている生徒の姿があった。
この日の入場者、19,804人。

昔、卒業生吉村昭の講演会に行きそびれたのが心残りである。


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