2017年10月9日月曜日

第57 日本薬学会、初めての会員名簿

薬学昔々 第57話

薬学会の初期のころを知るには、会員名簿が一番いい。
人数が少ないから有名人の比率が高く面白い。

最初の名簿はいつか?
明治11年3月、東大製薬本科、第1回卒業生9名が中心となり、月例となる勉強会を始めた。その年11月には東京薬学新誌という雑誌も創刊、東京薬学社を結成する。3号裏表紙に社員51人の名前が書いてあるのは、薬学会最古の名簿といえなくもない。
東京薬学新誌 第3号(明治12年)

しかし経営不振のため明治12年11月の7号で廃刊、解散した。
ところが、すぐ13年1月、ほぼ同じメンバーが神田明神開花楼で新年会を開き、以後、毎月の勉強会(神田福田亭)を復活させる。会員は約30名だったという。
なお、薬学会の創立は13年(1880年)4月とし、年会回数の基点は14年の総会(新年会)を第1回とする。14年12月には今に続く「薬学雑誌」が創刊された。

明治18年には会の名前が東京薬学会となる。
20年会頭を置くことが決まり、長井長義就任、22年副会頭の選任が決議され下山順一郎が当選した。
当時の交通事情から、会員は在京のものに限られていたが、地方会員がだんだん増え、早くも24年には在京171人、地方220人と逆転する。
翌25年(1892年)1月の総会で会の名前も日本薬学会に変更された。
日本薬学会として初めての名簿がこの年11月号に付録してある。
この1年で60人増え、464人となった全員の住所が書いてあった。
長井、丹波両教授は京橋区木挽町8-1、本郷区弓町2-20である。


よく見ると薬学以外の有名人も多い。
明治維新から厚生、文部行政の中心だった長与専齋、医師で東京衛生試験所長の中浜東一郎(ジョン万次郎息)、さらには明治の日本医学界をリードした三宅秀、大沢謙二、緒方正規、高橋順太郎といった有力教授たちの名も見える。

興味深いのは小石川区の濱尾新。安田講堂と三四郎池の間に東大最大の銅像として座っている。彼は文部官僚、東大総長(第3代、8代)として有名だが、何で薬学会にいたのだろう? 
1894年の名簿からは北里柴三郎や後藤新平も加わった。

地方会員では京都、静岡に慶松勝「右」衛門、近藤平八郎がいる。
薬学科2代目教授の父君たちであろう。
大阪には洪庵の息、緒方病院を経営していた惟孝がいた。

今はどの学会も会員数維持に苦心しているが、全会員400人の時代も楽しかっただろうとは思う。


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