薬学雑誌 1910年度(340号) C1-3,1911年度(347号)C231-233
明治13年1月に集まった者は、東大薬学本科11年卒業9人中7人(下山,丹波,丹羽ら),12年卒業10人全員(桜井,山田ら),在校生から14年卒業予定の9人中8人(田原,曲淵ら),15年卒業予定の5人全員ら,わずか4学年の若者30人だけである.
ここには教官,その他の薬学人はいない.
志ある青年の会とはいえ,単なる同窓会,親睦会であり,今のように公的な,立派な学会組織を作ろうという気などまったくなかった.
さて,毎月一回集まるように決めた明治13年も,晩秋には例会出席者がたった3人になってしまう.それでも年が明けた明治14年1月15日,例のごとく新年会が開花楼で開かれた.ほぼ全員が出席したるを機とし,一人立ちて曰く.
「我が親睦会は今やまさに廃滅に瀕す.是(これ)その目的を親睦の一点にありて,その他の利益を度外視した結果なり.宜しく会の組織を変更し,時世の要求に応じて学術的のものとなすべし」.
そして翌2月の第4土曜日,福田屋で組織変更案を議論した.
日本薬学会沿革史
親睦会は学術会に改まる.「職として薬学に関する事項を講習し,演説し,討論し,また質疑するの機関となり,おのずから本邦薬学の発達を図るをもって会の本領となすに至れり.」
会則が決められ,会名は薬学会となった.
「日本薬学会は実にこの秋(とき)において初めてその型核を成したるなり」
と沿革史にある.
さらに雑誌発行のための東京薬学社を作り,同年12月,官許を得て薬学雑誌第1号を発行した.
翌15年7月には,東大薬学科教官であった熊澤,飯盛ら4氏入会,以後,会員が少しずつ増えていく.薬学科発足時の唯一の日本人教授であった柴田承桂(明治10年東大医学部創立時の7人の日本人教授の一人)は,偉すぎる人だったからか,すぐには会員になっていない.ただし明治16年に東京薬学社の安定のための株券を筆頭の3株も引き受け応援している.明治18年1月の総会をかねた新年宴会にも,来賓として長井(17年帰国)とともに招待され,翌月に入会した.翌3月には長井が名誉会員として推薦され,資生堂の福原有信もこの月入会している.彼らは毎月の例会で頻繁に演説を引き受け,後輩たちの会を盛り立てた.
さて表題に戻る.
薬学会の創立はいつか? 根本曾代子『日本の薬学』(南山堂1981)には明治13年4月とあった.薬学会ホームページと同じ立場である.
しかし第80話で述べたように,月例会といっても囲碁をしていた明治13年4月は,薬誌の「日本薬学会沿革史」を見る限り,何の出来事もない.むしろ会則,会の名称を定め,学術会とした翌14年2月が正しいように思われる。
あるいは学術的かどうかには目をつぶり、人の集まりだけ見て、現在の薬学会から会の母体を連続したまま遡れるだけ遡った13年1月の方が、甘いけれども、創立に相応しいように思われる.
では、この中途半端な13年4月創立説はどこから来たのだろう?
ヒントはやはり「沿革史」にあった.
これは373ページもあるため,1910年6月号から7回にわたり薬学雑誌付録として掲載されている.順にみていくと,その明治34年のところに面白い記述がある(C231).
この年7月5日,文部省の正木直彦氏から薬学会に手紙が来た.フランス政府が各国の学会の実態調査をしていて,日本薬学会にも回答してほしいとのこと.質問事項は学会名,主催者,書記,常務,事務所住所,創立年月日,会員数,発行雑誌についてであった.
薬学会は同18日に文部省に回答した.
そこに「明治13年4月創立」と書いたのである.
何の出来事もない13年4月だが、若者たちが集まった「13年」に物事の始まりの「4月」を合わせたものだろう。
以後これを公式の創立年にしたと思われる。
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