埼玉県に32年もいたのだから、埼大通り(浦所バイパス)から正門は何回か見たことがあるが、中に入ったのは初めて。
正門の内側にバスロータリーがある。
都内の大学と比べると圧倒的に広い。
学生数は多くはないだろうが(学部生7000人)、ビルが建て込んでいない。
この雑木林はキャンパスができる前からあったような雰囲気。
陸上トラックの向こうに並木があって
その向こうにサッカー場や野球場がある。
何か古いものがないかなと、うろうろしてようやく見つけた。
埼玉師範学校のもの。
埼玉大学は、戦前の埼玉師範(浦和市常盤、さいたま市役所のあたり)が教育学部になり、旧制浦和高校(いまの北浦和公園)が文理学部(のちの教養、経済、理、工)になってできた。
両者は1964~69年に現在地に統合移転、当時は何もなかったであろうことが、今のこの広さから想像できる。
こんなに広いんだから、当時の木造校舎の一棟でも引っ張ってくればよかったのに。あるいは石碑など記念碑などもすべて持ってくればよかったのに。
オリンピックの直後という高度成長時代の真っただ中、古いものなど見向きもされなかったのだろう。
何か面白いものがないかなと図書館に行ったら、入ってすぐのところに梶田隆章先生のノーベル賞受賞記念展示コーナーがあった。先生は川越高校から埼大に進学された。
真っ先に目についたのがノーベル賞のメダル。えっ?めだる?
いくらガラスケースに入っているとはいえ、本物があるわけない。
だいいち、3個もあるし。
よくみたらノーベル賞メダルチョコレートの容器がある。
テレビでちらっと見たけど、これが例のチョコレートか。一般人も買えるらしいけど、先生のサイン入りに価値がある。
日付がH29.10.14って、つい最近だけど。
卒業論文。
学生番号を見るとアイウエオ順に二人一組で書いたのだろうか?
よく考えたら、私の場合なんか、卒業論文は何も書かず、修論で初めてかいた気がする。妻の場合も記憶ないというから、4年生でこういうものがあるだけちゃんとしている。
今の4年生は書けるだろうか。
弓道部でしたね。
受賞対象となった論文。
これはケースに入っていなくて、ただ置いてあったので、
写真を撮るためにタイトルプレートを移動させてパシャリ。
著者の数に圧倒される。
一番上の行だけで9人。それが16行続く。
さすがスーパーカミオカンデのビッグサイエンスである。
不思議なのは梶田先生の名前が7番目であること。
この分野は全く素人なので筆頭著者のY.Fukudaも、ラストの K.K.Youngも誰だか知らない。
受賞のもととなったのなら、Kajitaは筆頭でないとおかしい。
と思ってさらにみていくと Y.Totsukaも、M.Koshibaも目立たない場所にあった。どうもアルファベット順に並んでいるようだ。物理はこうなのだろうか。
この論文は July 6 1998
Y.Totsuka 戸塚洋二は生きていた。というか中心人物だった。
その後、彼はがんを発病した。
余命もすべて公表してから、盛んにメディアにとりあげられるようになった。
文芸春秋での立花隆との対談や、日経サイエンスに毎月連載した彼の文章はかかさず読んだ。死を目前にした人の書くものは、深い意味が感じられた。末期に顔がむくんで別人のようにみえても文章は相変わらず明晰で、死が近づくにつれ深く透明になっていった。
自分は死んでしまうが、一人一人のデータを丁寧に集めれば何かが分かるはずだ、と自分の腫瘍マーカーの変化を克明に片対数グラフにプロットしたり、どんな医師よりも徹底的に自己の病態を分析した。確かにこれくらい深いデータを他の患者からもとれば次の人のための新しい治療法が見つかるかもしれない。
膨大なノイズからかすかなシグナルを拾い出し、それらを統合してニュートリノに質量があることを示した彼らしく、はっきり言わなかったが、ヒトのがんは個人差が大きいから一般法則など取れないという医学者、生物学者の甘えを批判しているようだった。
2008年7月10日死去。数日前までブログを更新されていたのを覚えている。
梶田先生が受賞したのは2015年。
この7年というのは、戸塚の死でノーベル財団が一旦ほかに目が行き、再び戻ってきたように見える。
梶田先生と共同受賞したカナダのA.マクドナルドは、ニュートリノが質量があることを示し、戸塚と2007年にベンジャミン・フランクリン・メダルの物理学部門を共同受賞した。
その翌年、戸塚は去った。
小柴は追悼で「あと18か月生きていてくれたら君にノーベル賞が行ったのに」と述べた。
ノーベル賞は3人まで受賞できるが、2015年は梶田マクドナルドの二人だったというのは、戸塚の霊のために空席を作ってくれたようにも見える。
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