2018年2月25日日曜日

ニンジン処分、春キャベツ地植え、野沢菜、

きょうは2月25日。
2月19日に雨水(雪が雨に変わり、雪や氷は溶けて水となる)となり、
 初候 土脉潤起 2018/02/19
 次候 霞始靆 2018/02/24
 末候 草木萠動 2018/03/01
3月6日には啓蟄がくる。
 初候 蟄虫啓戸 2018/03/06
 次候 桃始笑 2018/03/11
 末候 菜虫化蝶 2018/03/16

我が家の庭もフキノトウが出て、白菜が元気になってきた。
2018-02-25 野沢菜も茂ってきた。

今日は久しぶりにのんびりなのでゴム長靴で庭にでた。

ニンジンは2年続けて失敗。
昨年は9/5にまいたのだが、日当たりが悪かったのか育つ前に冬になり、春になってもそのままにしたら、急に元気になって私の背丈より高くなって、ニンジンとは思えない植物に変わってしまった。もちろん食べられなかった。

今年度は場所を変え、9/3にまき、9/10発芽、しかし何者かに食べられたのか、いつの間にか小さいもの少しだけ残り、昨年同様やはり育たなかった。

暖かくなってくると葉が茂るだけなので、きょう抜いた。
非常に細い。
でも夜、食べたら、とても甘かった。
葉っぱは、昨年同様、やはりまずい。
2年続けて失敗し、もう二度と作るまいと思ったが、あまり甘いので、来年も作ろうかな。

春キャベツは順調。

10月9日に種を撒いて、育つ前に冬になった。
育ちすぎると春にトウが立って結球しなくなるから、このくらい弱弱しく冬越えするのが良い。

しかし今日見たら虫に食われている。
ショック。
さすが啓蟄が近いだけある。
しかし葉には何もいない。
ヨトウムシのように地中にいて昨日のように天気の良い日だけ出てくるのだろうか。

何としても虫を駆除しなくてはならないと、食われている苗の土を念入りに調べた。
虫を逃がさないように盥の上であけた。

移植するには鉢型土を崩さなないようにしなくてはいけないのに、バラバラにほぐしてしまった。苗にはよくないけど、植えれば回復するだろう。
しかし、虫はいなかった。
いくつも食われているので、いくつも土をほぐしてみたが、やはり虫はいない。

仕方なく、そのまま、すべて地植えした。
まだ蝶は飛んでいないが、明日の朝にでもネットを張ってしまおう。

鍬代わりのスコップが折れた

スコップとシャベルの違いは何か?
JIS規格では、掘るときに足をかけられるようになっているのがシャベル(ショベル)、足をかけられないのがスコップというらしい。へ~。でも覚えられそうもない。

しかし私は足をかけて土に突き刺すのをスコップと言ってきた。東日本では私のようにJISとは異なっているらしい。

今日、キャベツの畑を作るに当たり、土を掘り返していたら、私愛用の鉄のスコップがぐにゃりと曲がった。えっ?
鉄が錆びていて割れ、そこから折れたのだ。

とうとう折れたか。
何年使っただろう。
息子が生まれた1989年だから30年近い。
思い出のスコップ 2018-2-25

バブルのさなか、1989年6月、東大宮の公団住宅をでて、北足立郡伊奈町に小さな中古住宅を買った。
大宮からニューシャトルで19分、志久駅から歩いて7分。
1975年に長野を出てから初めて庭のある家にすみ、さっそく作物を育てたくなった。
狭い庭には小さな花壇、その向こうに古い組立て式スチール物置があった。畑をつくるため、この物置を処分した。
1991年春、
右奥のブロック塀の隅に物置があった。

農家の人が畑を耕すときは、ふつう鍬を使う。
しかし、畑でない固い地面を畑にするには、深く掘り返さねばならないからスコップが必要だ。
毎週スコップで大きな穴を掘りながら、出てくる石を除き、生ごみやら落ち葉やらを入れた。この分譲地は低地に盛り土をしたのか、粘土やら砂利やらが固く詰まった敷地だった。
以後、毎年季節が変わり作物を植えるときは、必ず深いところまで土をかきまわし、土の改良に努めた。

おそらくホームセンターから買ってきた安いスコップは、
1996年に伊奈町から指扇へ、
2013年に指扇から千駄木に移っても、ずっと私と一緒に、よく働いてくれた。

 穴を掘る、
 耕す、
 地中の巨石を掘り出す、
 庭木の邪魔な根を切る、
 古株を抜く、

庭での作業のほとんどを、これ1本で済ませてきた。

外に出しっ放しで雨ざらしになりながらも、彼は何も言わず、もっとも私の役に立ってきた道具だった。
太く伸びた根を切るときは、乱暴に足で突き続けたり、巨石や古株を掘り出すときは下に潜り込ませ、梃子の原理で体重をかけたりしたから、いつのころからか、あちこち曲がってしまい、寿命を短くしてしまった。

スコップのうつる写真を探してみる。
20160430 千駄木で畑造成中、偶然コンクリート塊にぶつかる。

20160430 
(一度は地上に出したが邪魔で2017年埋めなおす)

20170219 ザクロきり株を抜く

思い出いっぱいのスコップ、もっと初期のころがないだろうか、と探したらアルバムにあった。
1991年夏
右の奥のほうに、例のスコップが見える。

さて、2018年、
本日の作業は途中からもう一つのスコップを使った。
これは叔父が事業に失敗し、家を手放してアパートに移ったときにもらったもの。彼は野菜作りなど興味がなかったから雪かき用に買ってあったのかな。プラスチック製のものが出る前の、何十年も前のさびたスコップ。
先端がとがっていないから穴を掘るには使いづらい。
私が30年近く酷使したスコップ、使い物にならなくなったが捨てるわけにもいかない。
洗ってオブジェにでもしようかな。



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2018年2月22日木曜日

第56 19世紀末、世界のコレラ事情

明治25年、虎列刺(コレラ)の解説記事
薬学雑誌 1892年、p1150-1154

明治に怖れられた伝染病としてペストとコレラが思い浮かぶ。
同じカタカナ3文字。両方とも細菌が媒介するが、両者はかなり違う。

ペストは、6世紀のローマ、ユスチニアヌスの疫病や、14世紀の黒死病(ヨーロッパ人口の3分の1が死んだという)はじめ、常に文明社会とともにあり、人類を脅かしてきた。ペストを表す英語、pestilence あるいは plague には、疫病という意味もある。つまり疫病・イコール・ペストであった。
ところが日本では1899年に初めて入って以来、ペストは最終患者の出た1926年までわずか2420人しか死亡していない。島国であることに加え、患者が出れば徹底してネズミを駆除したというのが大きいだろう。東大病院で弱ったネズミが発見されただけで校舎を焼却した話を以前書いた。

一方、コレラは意外と新しい。
ガンジス川デルタの風土病だったものが、世界的疫病になったのは、19世紀になってからだ。1854年にはイギリスのスノウが、コレラの犯人として、瘴気ではなく飲み水を指摘した。それでもコレラは、患者の下痢便からどんどんうつった。
明治の日本は、2、3年間隔で数万人単位の患者が出て、1879年と1886年には死者が10万人を超えた。コッホによるコレラ菌発見は1884年である。もちろん治療法の発見はずっと後だ。

世界史の上ではペストのほうが圧倒的だが、日本だけに限ればコレラのほうが猛威を振るった。

明治25年11月号の薬誌は、各国のコレラ事情を紹介している。
それによると、この1892年は9月までにロシアで16万人、欧州ではハンブルクの7000人を含む4万人が死亡したらしい。アメリカは「コレラバチルス」の汚染が心配ということでチーズや甘草などの生薬の輸入を禁止した。

ワクチンの研究も始まっている。
1885年のスペインの研究は失敗したが、本記事でも加熱(40.5度3日間または70度2時間)した菌が動物を免疫したという報告を紹介している。

さらに、過去の「奇なる虎列刺療法」という記述もある。
1832年の世界流行のとき、米国の医師は患者の肛門にコルクを栓し、英国の医師は、1分間に80-100回のシーソーをさせたという。
笑うなかれ。真相は不明だが、これらは肛門を閉め、米のとぎ汁のような下痢を防ごうとしたのではあるまいか。

コレラは脱水が直接の死因である。
抗生物質を与えなくとも水分補給がかなり有効で、1970年代に開発された経口水分補給療法(ただの水、糖、塩)は発展途上国での患者死亡率を50%から1%以下に変えた。
つまり水分補給さえしっかり行い静かにしていれば、あの虎の化け物のような恐ろしい病でも死ななかったのである。
エーザイ薬博物館所蔵

2018年2月21日水曜日

第55 松脂(まつやに)の水蒸気蒸留

松やにからテレピン油を製造する法
薬学雑誌 1889(明治22)年、p345-352

電気も器具もなかった明治初期、どんな装置で実験していたのだろう?
意外とわからない。
当然のことながら論文というのは簡潔を善しとするため、自明のことは書かない。合成法も試薬の量、反応時間、温度で事足りる。それゆえ、薬学雑誌の文章から当時の実験室を想像するのは難しい。しかし本論文は、珍しく図が何枚かあり、往時が偲ばれた。

内容は的列並(テレピン)油の製造法だが、出来は松脂の採集にかかっているという。
精油製造のためなら松幹への切り口は四角、華爾斯(ワニス)の採集のためなら逆三角形に切り込め、
と屏風絵にあるような立派な松の木が3本描いてある。
四角か三角かを言うだけなのに、松は地にしっかり根を張り、幹は自然に傾き、樹皮もごつごつしている。なおこの論文のタイトルは、テレピン油の製造法ではなく、「松幹の説」である。

得られた華爾斯は、焼酎製造用の容器(下図)にいれ、水を加えて下から火を焚く。

水蒸気蒸留である。冷却して得られる油は水に混じらず、27%あるという。石油もない頃だから、有機溶剤、医薬品成分としても重宝された。


ちなみに、戦時中航空機燃料にしようとした松根油は、伐採後の古根を掘り起こして乾留したものだ。(すなわち水を使わない)。
松根油は全国から集められたが、精製を待つ間に終戦となった。だから根っこ堀りの思い出としては多いが、航空機には使われていない。

さて、著者村上栄太郎はさらに松幹におけるワニス流出の経路を究めんと欲し、黒松の若芽の横断面を顕微鏡的に観察した。ワニス管は13個ある新生細胞組織の外側に対になるよう配列されていると詳細な図を書いた。
コピー機のない昔の人は絵が上手かった。

2018年2月18日日曜日

第54 病気の牛の肉は食べられるか?

「平成口蹄疫と明治の結核牛」というタイトルでファルマシアにコラムを書いたのは、2010年5月頃で、9月1日号に掲載された。

もうすっかり忘れてしまったが、2010年の春から夏にかけて、宮崎県南部を中心に口蹄疫が大流行した。 今あらためてWikiを見ると、すさまじい事件だった。

3月頃発生し、7月4日の終息確認まで、(健康家畜まで含めて)29万7,808頭を殺処分。全26市町村のうち5市6町におよび、発生農場数292、牛の殺処分頭数6万8,266頭(県全体の22%)、豚の殺処分頭数22万34頭(県全体の24%)、ヤギや猪などその他343頭、自衛隊が動員され、埋却地251箇所(面積は約142万m²)、中止されたイベントは226、封鎖された施設は約400施設。

鳩山内閣の赤松農林大臣が外遊(国費による海外旅行)をキャンセルせずに行って批判されたり、農相代理の福島みずほが何もできなかったり、東国原知事が連日危機を訴えていたりしたのだが、今どれだけの人が覚えているだろう?

さて、その最中に私が明治時代の薬学雑誌から記事を見つけてきて書いたエッセイである。
「平成口蹄疫と明治の結核牛」
薬学雑誌 1904年度 236頁,327頁から

神戸牛が有名なのは味ではなくて,明治初めに外国人が多く,圧倒的な生産量を誇っていたからだ.
ちなみに兵庫県で明治36年の1年間に屠殺したのは
牛 21,216頭,
馬 170,
羊 889,
豚 3817,
以上、計26,092頭。

当時はまだ薬学会も有機化学が盛んでなく、むしろ衛生、裁判化学などが研究対象だったから薬学雑誌にはこういう記事も多い。

この年,畜牛結核予防法が施行され,11月,神戸市では1ヶ月かけてツベルクリンによる初めての結核検査をした.その結果,1005頭中,
 健牛595,
 病牛376,
 疑似66,
 猶予59.
驚くべき高率である.
ヒト型結核菌とウシ型結核菌は,人畜共に感染するから口蹄疫より怖い.しかし,薬誌の認識は「若し家畜結核菌が人類に病毒を伝ふるものとすれば厳密なる取締を要すべきものとす」という程度だった.

この後どうしたか? 
今なら全1005頭を殺廃棄だが、病牛だけでも処分しただろうか? 
処分や騒動の記事は見つからない。そもそも牛結核は突然発生したものではないから,少なくともこの年までは結核牛を普通に食べていたわけだ。
このあとも具体的対処法が通達されるまでは,衰弱牛でもない限り流通していたのではあるまいか。

その代わり,兵庫県はこの検査の結果から牛乳の規制に乗り出した.
健牛と結核牛の乳汁を混ぜて売るだろうから、消毒したものに非ざれば販売してはいけないとする.しかし加熱滅菌すると不快臭が生じたらしく外国人などから苦情が出た.それに対し,薬誌翌月号は,「当局が規則を改正し,従来の飲食品の性質を改むるには,一般需要者をして満足を与ふることを肝要なりとす」と,これまた長閑である.

一方,平成口蹄疫の対処法はすさまじい.
しかし感染力は強いといっても大抵回復する。ましてやヒトにはうつらないという.つまり、症状自体の怖さと感染防止の厳格さとは、別問題なのだ。あの厳しさは「清浄国」へのこだわり(とそのための法令順守)による.
しかし周辺に非清浄国があるのだから,また発生するだろう.そのたびに半径10km以内の健康家畜を大殺戮して埋めていいのだろうか.
経済的にも動物倫理的にも異常である.

口蹄疫を国際協約や国内法の対象疾患からはずすことは不可能だろうか.明治の鈍感さは問題だが,発生しても健康牛豚なら食べるという常識が生きる対策はないものか.
・・・・

以上が8年前のエッセイである。

その後の8年で追加するとすれば、
2015年ごろの「新潮45」で連載されていた、『わたくし大阪』である。被差別部落で生まれた上原義広が、自分の父親が食肉卸売業で成功していく様子を描いた小説?ノンフィクション?である。
その中で若いころの父親が闇で手に入れた病牛を夜明け前の河原に引っ張り出して密かに殺し、まだ熱い内臓を手で取り出す場面がある。生臭い血の臭いにむせそうになるほどの臨場感。問題はこの肉が、大阪の安いホルモン酒場で飛ぶように売れるのだ。
おそらくたいていの病牛、病死の肉でも食べて大丈夫なのだろう。
しかし病牛はやはり、食べられない。
法律上の問題もあるが、気分の問題が大きい。

しかし、健康な家畜なら、口蹄疫が近くで発生していても(杓子定規に埋めるのではなく)何とか食べてほしかった。
国は全て買い上げ、「宮崎産、健康牛」と表示し半額で売る。口蹄疫から回復したものは7割引きで売る。私は積極的に買う。供給過剰で他産地に迷惑がかからないよう、価格調査と冷凍設備の確保は必要だろう。そして国民がいつもより肉を多めに食べて宮崎を応援すべきでなかったか?
昔、厚生大臣がカイワレ大根を食べてアピールしたではないか。

2018年2月16日金曜日

熊谷3 八木橋の中山道、入れない熊谷寺

熊谷は埼玉北部の中心都市として知られる。
埼玉県の4つの旧制中学の一つがここに置かれたし、埼玉で市制施行したのも川越に次いで2番目である。
江戸時代は中山道の熊谷宿であった。前後の宿場と違ったのは、西の秩父、東松山、東の行田、館林、太田などから中山道に出るときが熊谷だったという、地理的環境だろう。
現在でも17号(中山道)のほかに、南北から407、東から125、西から140号が入っている。

2月16日、中山道沿いの埼玉慈恵病院の近くで用事があった。終わって、街道沿いを江戸方面に歩いた。東京、大宮あたりに住んでいる人間の頭では、江戸は南という感覚だが、この道は東にすすむ。確かに中山道は東海道とともに東へ向かう道だったことを思い知る。
まもなく、八木橋百貨店にぶつかった。

中山道跡と石碑があるが、この横に走る通りは中山道でなく、昔の新田道(太田道)。利根川を渡って群馬へ通じる。中山道はこれを横切って、なんと、このまま百貨店の中を入っていくのだ。

ふつう、百貨店の1階は婦人物のカバンや貴金属などが多いが、
八木橋百貨店、なかなかやるじゃないか。
旧中山道のあとは、老舗の和菓子中心の店が(街道脇に)並ぶ。
団子を食べられる長椅子があればなおよい。

かつて地方都市の中心にあった地元密着百貨店が中央の資本に買収され、その百貨店が郊外量販店に押され、つぶれていくなか、川越の丸広などとともに残っている。春日部ロビンソンも残ってほしかった。
デパート西口から入り、東口からでると、ここにも石碑。
かつてこの地点から南に石尊街道(鎌倉街道)が始まった。鎌倉時代から交通の要衝だったのである。


前回訪ねた片倉シルク記念館がそばにある。

八木橋百貨店から出て、ふと横を見たら、なんか立派な寺があるではないか。
 浄土宗 熊谷寺(ゆうこくじ)
すべての入り口は閉ざされていた。隣の稲荷神社に入っても、そこから地続きの寺に入る道はない。徹底して閉じている。
「参拝・観光等 一切不可」
「カメラの焦点を合わせる前に手を合わせましょう」
とある。

・・・・・
(2021年10月訂正)
(理解不足から不適切な表現があったため、深く反省し、ここにあった文章をそっくり削除しました。)
・・・・・

帰宅して調べたら熊谷寺は、熊谷次郎直実が出家して住んだ庵のあとに建てられたそうだから、彼の名前からとったのだろうか。もちろん熊谷の地名はそれ以前からあり、次郎直実(平氏)もそれを苗字にした。

なおも歩くと高城神社があった。
隣で結婚式もできる。熊谷はなかなか文化度が高い。
日本一長いおみくじ(1メートル)で有名。
イチョウか。
枯れた部分が多く、神々しさがない。
下のケヤキもそうだが、木々の神々しさは古さではなく、大きさである。この2本とも途中で折れ、枯れそうな状態では、ありがたみがあまり感じられない。

町の中心を流れる星川。
両側は石畳を敷き詰め、飲食店が並ぶ。大宮や浦和よりおしゃれな町だった。


2018年2月12日月曜日

文京区の補助停止と桜剪定

我が家の桜は周囲3メートルある。文京区の保護樹木に指定されていて、剪定費用に補助金が出る(半額)。しかし昨年から補助金支給が3年に一回となった。

予算には限りがあるから、どこかを増やしたらどこかを減らさねばならないのは分かる。
ただ文京区をどうしたいのかというビジョンはあるか?

この区の売りは明治(江戸)以来つづく良質な住宅地と文化人がすんだという歴史、都心ながら坂道などに残る緑ではなかったか?

それが今では、古い住宅が売り出されると低層マンションか、あるいは4分5分され、庭のない3階建ての戸建てになる。幹線道路は高層マンション、どんどん緑がなくなっていく。今の区長は、子供若者を増やすことを優先させ、マンション建設に積極的と聞く。

しかしそういうことはほかの区に任せ、文京区は文化遺産と緑地の保存に努力したほうが、長い目で見たときに良いのではないか? 都内なら人口の多さよりも環境の魅力のほうが重要だと思うのだが。

私はまだ働いているから良いが、年金暮らしの人は、金がかかって落ち葉掃きなど大変な樹木など間違いなく切ってしまう。コンクリートの箱モノだけの区にしたいのだろうか。

さて、そうはいっても我が家の桜は区の制度と関係なく生きている。
普通の樹木なら大きく切れば3年に一回で良いかもしれないが、桜の老木ともなると一気に切ると枯れてしまう。今年はこちらの方面、来年はあちらの方面、と計画を立て、上を詰めることによってその下方の横枝を伸ばし、光合成の盛んな横枝が育ったら、すぐその上を切り落とすことによって、だんだん高さを下げていく。
高さを下げる理由は、近所迷惑となる落ち葉の飛散と強風による倒木を防ぐためである。以前住んでいた人が2011年までほとんど手を付けなかったため、今になって苦労している。

昨年は南側の太いところを切ったため、温存した北のほうが奔放に伸びている。
ちょうど一人暮らしをしたいと言って出て行った息子の部屋の前だ。一番いい部屋にいた彼は、昨年まで桜を見ていたのだろうか?
2018-2-11
2018-02-11
2013年以来お願いしているH造園Tさん。
初期のころは植物生理学的に疑問に思うことがあったり、あるいは樹形に対して注文したこともあったが、彼の人柄が好きなので、最近は全面的にお任せしている。良い人に巡り合ったと思っている。
この日も、共同でやることが多いというF造園の人と一緒に来られた。高所での足場の確保の方法や切り落としに関して、TさんはF造園の人を全面的に信頼して、木を見上げながら二人で相談している。

 
2018-02-12
今回は桜のほかにモミジもお願いしてある。ここは引っ越す前、二世帯住宅だったときのもう一つの玄関で、今は使わず自転車置き場になっている。この木は塀を押しているので、塀が倒れると厄介。樹勢を弱める必要もあって一気に小さくした。

お隣さんは「いつも紅葉を楽しませてもらっています」といってくれるが、落ち葉の迷惑は言わないから、本音を忖度しなくてはならない。切るほうにいくのは、過剰な自己規制かもしれず、これが殺風景な街並みにつながっているかもしれない。

2018-02-12 ニンニクと野沢菜

毎年、休憩には庭でお茶を飲みながら、世相や政治、教育、未来のことまで雑談する。
今回はいじめと子どものスマホなど。
お茶を飲みながら我が家の白菜、大根に話が及び、木の陰になって育ちが悪い、といったらハナミズキと山茶花を切ってくれることになった。
見積もりでは桜とモミジだけだから、サービスである。
桜と違って自分でできないこともないから、あとで一人でやろうと思っていたが、プロにやってもらったら早いしきれい。
2018-02-12
 この山茶花が2012年まで庭を真っ暗にしていたことは、今では信じられない。
2018-02-12
山茶花、ハナミズキも終わり
「これだけ切っておいたら来年は剪定しなくて済みますね」と言われた。
「金木犀が軒にかかるんですけど、来年、金木犀だけやるといくらくらいかかりますかね?」と聞くと、
うーん、と考えて「枝がトラックに乗るようだったら、今切っちゃいましょうか」と片づけが終わったのに、再開、二人で切ってくれた。
金木犀も2012年に庭だけでなく平屋部分の屋根を覆い、二階のベランダから枝に手が届きそうだったことは信じられない。

2018-02-12
すっかり予定外の木まで切ってもらい、帰りには大根と白菜を持って行ってもらった。白菜は開いているから葉が緑で硬いだけでなく、葉の間に落ち葉や土が詰まっている。包みを開いてがっかりされないか、ちょっと心配。
翌朝も満足感が続く2012-02-12 

一人きりになって、庭を眺めると、しみじみとした満足感。
この満足感は何だろう?
・今日は久しぶりに朝から1日家にいて、彼らの作業中は私も草取りをしてきれいになったこと、
・気になっていた桜がすっきり、あと2年は頼まなくてもいいこと、
・サービスで他の木も切ってもらったおかげで菜園の日当たりがよくなったこと、
・二人の職人への感謝、
・フキノトウやチューリップが芽をだし春が近づいていること、
などいろいろ考えられるが、一番は、庭そのもの、ひいては7年前に周囲の反対を押し切って一世一代の勝負に出て、訳あり物件として買ったこの家への満足感だろう。

補助金申請の時は、12月から区役所と連絡を取り、直前には下見に来てもらい、写真を撮り、書類をそろえる。さらには「道路にはみ出ている部分は、切るのが当たり前だから補助の対象になりません」などと現実的には算定不可能な嫌みも言われ、実際(数字根拠不明に)減額される。

今日はすっきり、私と職人さんだけで日程を決め、書類の必要もない、気持ちのいい日だった。
これもしみじみとした満足感の原因だったかもしれない。


千駄木菜園 総目次

2018年2月7日水曜日

第99 点滴のしずくの大きさ

薬学昔むかし
薬学雑誌1899年度(明治32年)p901-905
 
今まで何人か、病室に見舞ってきた。
たいてい親戚である。
何人かは点滴を受けていた。
2010年2月、食べられなくなった父親の最後は自宅で、ほとんど血管に針がさせなくなっていた。
2017年1月、肺炎で入院した叔父は、もともとワーファリンを飲んでいたこともあり、いつも血だらけだった。

看護師は点滴バッグをセットすると、落ちる滴を数えながら注入速度を調節する。
見ていると、滴下口の先の滴はだんだん大きくなって、それが重力に耐えられなくなると落ちる。つまり水滴の大きさは、滴下口の縁と水との間に働く引力と、水滴の重さで決まるように見える。

日本薬局方では
「滴数を量るには、20℃において精製水20滴を滴下するとき、その重量が0.90~1.10gになるような器具を用いること」らしい。
濡れ易ければ滴下口の外径(縁の厚さ)、濡れにくければ内径が重要なことは容易に想像がつく。難しい式は分からないけど、濡れ易さには、器具(滴下口)の材質と溶液の表面張力(水同士の引力)が関係するだろう。

溶液の表面張力が関係するなら、薬液によって水滴の大きさは違うのだろうか。
藤本理が外国文献Pharmac. Central.17, 265, 1899を薬誌で紹介している。

「液体の滴量は如何の状況に関係あるものなりやの問題は、吾人の大に必要とするところにして、プロフェッソル・ハルナック氏は専ら之が正解に力(つと)めたり(略)」。

Harnackは、自作ビウレットから1滴1秒で落としながら100種類ほどの溶液を調べた。
蒸留水1gは13滴(1滴0.077ml)であった。しかし、新しく調製した液が古い液の滴数と大いに異なったり、さらに器具が変われば、例えば0.5%モルヒネ水溶液が、8滴から27滴まで変わるというのだ。患者に点滴するときは注意を要する、とのこと。最小滴はアルコールで、1gが42滴、最大滴は一半塩化鉄液の11滴だった。
この記事、本当だろうか?
夏休み、子供(孫)にさせたいような研究である。

さて、41年前の1977年、薬学に進学して最初の実習は分析だった。
滴定用の液を作る日だったか、先生から全体説明があった。
そこで
・薬包紙1枚は 0.3g、
・1滴は 0.05ml(50 μL)
という「目安」を教わった。
最先端を学ぼうとしているのに、最初に教わったのはこんな原始的なことであった。しかし、以後何十年も世話になる便利な数字であった。

ついでに言うと、まぶたの裏、結膜嚢に保持できる液量は 20~30 μLだが、既に約 7 μL の涙が入っている。目薬は二階から差さない限り、1滴(50 μL) で十分だ。

2018年2月5日月曜日

第89 米沢のはっか栽培史

置賜郡(山形米沢地方)のハッカ
薬学雑誌1897年度(明治30年)p798-801

薄荷の栽培について、皆どれだけ知っているだろう?
小学校だか中学の社会で、北海道の北見では、テンサイとはっかの栽培が行われていると習った記憶がある。

薬学雑誌に日本におけるはっかの栽培史があった。
「薄荷に就いて 置賜郡に於ける薄荷の沿革」と題する4頁の論文である。

まず上杉鷹山が出てくる。
彼は童門冬二の同名本(1983)で一躍有名になったが、それ以前はあまり聞いたことがなかった。まして明治のころは誰にも知られていないと思っていたが、こんなところで出会うとは。

「旧米沢藩主、上杉鷹山公が殖産事業について深く鼓舞奨励せられたることは洽く世の知るところなるが、薬品に関してもまた幾多の遺功を垂れ給へり。
 公は薬草に経験ある士を江戸表より招聘し吾妻山中の植物を調査せしめたるに、数多くの薬草を発見せり。
 次に会津より人参の種を取り寄せ(略)」。

この論文に寄れば、薄荷(ミント)は換金作物として安政年間に岡山や広島で始まったらしい。
しかし明治初期にかけて主産地は山形に移った。山形南部が盛んになったのは、このように鷹山以来、薬草栽培が盛んであったからである。

論文には歴史、栽培法、成分(油・脳)の製造法が書かれている。
著者は肥料が大事だという。山形東村山郡の薄荷が苦く香り乏しいのは荏粕を使っているため、岡山県産に異臭がするのは魚を肥料に使っているため、と推理する。置賜郡は人尿を使っているから良いのだと。

水蒸気蒸留によって薄荷油を抽出し、ここから薄荷脳とよばれる複合結晶を得る。
食品、生活用品だけでなく、現在も薬局方にあるように医薬品としても重要であった。当時は欧米でメントールの需要が高かった。しかし外国産薄荷油はメントール含量少なく、また英独仏では日本から苗を取り寄せても年々その成分含量が低下し栽培断念、日本から薄荷脳を輸入せざるを得なかった。当時イギリス産が最上とされたが、著者は明治26年に米国博覧会に出品、優等賞を得たという。

その後、山形県人などの移住により明治時代に主産地は北見、網走地方に移る。
(ここから我々の知る社会の教科書に載るのだ)
戦前にホクレンが北見工場を建設し、一時世界生産量の7割を占めた。戦後も朝鮮戦争の影響でアメリカ向け輸出が増え、作付面積、生産が拡大したが、1960年代以降は外国産の安価な薄荷(インド、ブラジル産や合成品)に押され、輸入自由化のあと80年代に工場を閉鎖した。現在は数軒が栽培するのみという。

TRPM8というメントールの受容体が発見され、これは同時に低温を感知することが分かった。はっかがスース―するのは、気のせいではなかったのである。
この受容体と頻尿(寒さによる膀胱過活動)や痛覚異常(糖尿病などで痛覚過敏)の関係が研究されているが、メントール類の新しい適応症、利用法が見つかっても、日本で薄荷の栽培が復活することはないだろう。

2018年2月4日日曜日

大根の収穫とスーパー小売価格

今日は立春。
寒が緩み、フキノトウも膨らんだ気がする。

大根は、雪が長く乗っていたせいか、葉柄が下がって葉が閉じ、葉の量が少なく見える。葉っぱが小さくなるといよいよ根が目立ってくる。
一方、こちらの大根は金木犀の日陰になるせいか、育たない。
同じ品種(宮重総太り)とは思えないほど。
根部は100グラムくらいか。畑の半分以上はこの程度。
9月初めに種をまいてから5か月もたっている。

この時期での大根の大きさを調べたいので、地上に出ている部分が比較的大きいものを選んで抜いてみた。抜くのは楽しい。近所にあげよう。
大小いろいろ、泥を洗い流す。水が切れるように冷たい。田舎を思い出す。
千駄木菜園としては、葉っぱを除いた重さをデータとして残したい。
しかし葉っぱをつけて差し上げようと思うので、大根そのものの重さが測れない。
一番小さなものを自家用にして、葉っぱを切り落として測る。300グラム。
この値と先日収穫したチャンピオン1200グラム大根、それから今まで過去4年の経験から、残りの8本の重さを推定すると、上の写真、左から
500, 1100, 700, 300(実測), 650, 650, 500, 500, 800 かな。

2本ずつ4軒に持っていったら、2軒から、今大根が高いから助かります、と言われた。このところの大雪と寒波で野菜が高騰しているのは知っているが、具体的な値段は知らない。ということで、この日、実際に調べてみた。

まず、キツネ坂を不忍通りに下りたサミット。我が家が一番使う店。
  白菜4分の1 198円
  大根1本 358円 (900g位かな)
  大根2分の1 188円
  大根3分の1 128円 (小さい)





続いて不忍通りを渡った道灌山通りのマイバスケット。ここは品物が少ないが、意外と(サミットより)安い。
大根4分の1 158円(サミットの3分の1より大きい気がする)
  白菜4分の1 158円
コンビニみたいな都市型スーパーなので、この大きさしかない。
2018-02-04

最後は、不忍通り、動坂下に近い「肉のハナマサ」。
  白菜 4分の1 198円
  白菜一玉 750円
  大根 1本 280円。3店で一番安い。(1kgくらい)
ここは業務用スーパーと謳うだけあって、けちけち売らない。


他に動坂下交差点を渡ると「コープ田端」、不忍通りを千駄木駅の方に行くと「100円ローソン」と昔ながらの八百屋さんがあるが、普段使わないので、調査せず。

高値が続くといいな。
いつも春先、スジっぽくなって食べられずに捨てているのが、葉っぱでさえみんなに喜んでもらえる。