2018年3月18日日曜日

池上本門寺の地形と池上宗仲

本門寺のとなり、池上会館に行ってきた。
2012、2016年に続き3回目。すべてダンスがらみ。
今日はDSCJスタンダードA級戦、ジャルダンカップ。

五反田から池上線。
池上線という歌があったなぁ(1976)
しかし、ここに来ると、なぜか同じ1976年チェリッシュの
「あなたと初めて会ったのは、品川どまりの山手線~」
が出てくる。

池上線は、駅間が短く、踏切多く、生活感があって、低地を渡るときは(高架でなく)草の生えた土手の上を走る。

今まで考えたことがなかったが、東急路線名の池上とはなんだろう?
地名としては池上本門寺の周りしかない。
五蒲線とか本門寺線のほうが合理的な気もするが。

池上駅下車。
葛(久寿)餅、仏具店の並ぶ参道を過ぎると、呑川(ドン川ではない)。
橋の向こうに総門がみえる。
岡の上に城を作れば、この川は堀の代わりになる。
その岡全体が長栄山大国院本門寺。
正式名に池上の文字はない。

総門の脇を右折。
手前(左から)日蓮宗宗務院、朗子会館と本門寺の施設が並び、突き当りが池上会館。
周りに昭栄院、永寿院など本門寺子院があり、最初に来たとき池上会館はてっきり本門寺の付属施設かと思った。
 しかし大田区の施設である。
竹林に隠れる黄色い建物は池上会館の西館。
左の朗子会館よりずっと宗教施設っぽい。
確定申告の「申告書作成会場は隣の西館です」という案内プレートがなければ本門寺の一部と思う。
江戸時代は本門寺の敷地であっただろう。隣の池上小学校とも大田区所有となったのは、いつだか知らないが、明治の廃仏毀釈で困窮し(どこかに)売却したか。
競技会は2回戦で敗退。4階建ての屋上まで上がると、そのまま本門寺の境内。五重塔が目に入る。

この塔は戦災を免れた。
江戸四塔は寛永寺、浅草寺(戦災消失、再建)、天王寺(消失)と増上寺(戦災消失)または本門寺とwikiにはあるが、ここは江戸ではないから、増上寺だろう。
しかし、1607年建立、1702移築とは東京最古であり、貴重であることは間違いない。


地震で間違いなく倒れる石塔多し。
倒れたらまた載せればいいという考えか。
この一帯、熊本県人会の碑、川上彦斉先生碑があるから細川家の墓所だろうか。
時間がなくて碑文を読まず。
大名墓は米沢藩上杉家圓光院殿墓所、肥後熊本藩細川家清高院殿、および高正院殿墓所と3つあるらしい。



前田利家室の層塔。後方は大堂


ここは星亨の銅像があったらしいが、戦時中の金属供出で台座だけ残り、昭和58年に日蓮の像が建てられたという。おなじみのポーズだ。
近くに星薬科大学があるから星一の像の台座だったかと勘違いしていた。

日本看護婦会慰霊塔


大堂の裏(西北)にまわって振り返る。
大堂、仁王門、霊宝殿、経堂。

本門寺HPから

さて、大堂うら、紅葉坂の通りを北へ渡り、本殿の脇を通ると
日蓮聖人御廟所(下)
この裏の林に四天王の像があったと記憶して探したのだが、見つからず。
どうも目黒不動の記憶と混合していたらしい。

ところで日蓮は1282年9月、病身のまま身延山を出て、湯治のため常陸へ向かった。ここ武蔵国池上郷の池上宗仲の館に到着、20日あまり過ごして死んだ。入滅前に、背後の山の上に建立された一宇を日蓮が開堂供養したという。
では、なぜこの地に寄ったか?

当時の交通を考えねばならない。
今でこそ池上は中原街道と東海道の間で、何もないが、鎌倉時代、東海道は海沿いでなく、この近くを通って品川に向かった(池上道)。また北の中原街道も主要な道で、家康はここを通って関東入府したらしい。

『馬込と大田区の歴史を保存する会』ホームページ
http://www.photo-make.jp/hm_2/kaidou.html
が詳しく、古道だけでなく、土地の高低差も示されている。
当時、西から来て多摩川を渡ったら(平間の渡し)、この山にぶつかるのである。

池上氏はこの山のふもとに館を構えた。

日蓮は平間道(池上道)でなく、北の中原街道をとおり、多摩川を丸子でわたって、池上に来たようだ。立ち寄ったのは池上宗が日蓮の熱心な信徒であったからだろう。

今日のダンスは池上のほかに川越でも競技会があった。
あえて池上に来たのは本門寺周辺の地形を確認するためである。
ダンスがなければ、わざわざここへは来ない。

本門寺の南と西は呑川、北は2016年西馬込まで歩いた時、低地であったことを覚えている。
今回は東側を見た。大田区立本門寺公園は崖の下になっていて、本門寺は四方が低地の独立高地であると確認できた。
さらに撮影地点の墓地と本門寺伽藍群のあいだも低地になっていて、城にすれば空堀になる。

池上氏は伽藍群(山塊)の西の低地、子院である本行寺あたりに館を構えていたという。

そこへ行こうと西に降りる途中、都会とは思えぬ林の中に、国の重要文化財、宝塔に出くわした。日蓮を荼毘に付した場所に池上宗仲が建て、遺灰を入れたらしい。今の建物は1828年に再建されたもの。

大坊本行寺
池上氏の居館はこのあたり。
今の感覚だと敵の攻撃を防ぐためにも、見晴らしの良さからも、丘の上に住みたくなるが、坂の上り下りが面倒、あるいは生活用水の得やすさなどを優先したのだろうか。


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