2018年3月4日日曜日

谷中の空襲とみしま地蔵、十四地蔵

今や観光地の谷根千は、土産物店、食事処など増えて賑やかである。
ブームになったのは、寺や坂道に加え、路地に古い家が多く残っていたからだ。
ということは、戦災に遭わなかったのだろうか?
(これを見れば、確かに谷根千というのは、焼き尽くされなかった数少ない場所だ)

このように少し前まで戦前からの家が多く残っていたことから、空襲はなかったと思っている人がいるが、とんでもない。

東部の下町のように焼夷弾で焼き尽くされなかっただけで、昭和20年3月4日、小雪舞う朝8:40頃、B29の爆撃に遭った。
「谷根千」80号によれば、194機のB29が都内に侵入、投下爆弾532トン、罹災14,186人、死者650。
この近辺では、谷中地区が死者113人。200戸以上が破壊され500人以上の死傷者が出た。中でも谷中小学校を中心とする三崎町、真島町、初音4丁目の死者は70余名。
千駄木地区では、須藤公園の近くの防空壕に爆弾直撃、崖上の貯水槽も破壊され、生き埋め、水死で死者40人以上。

きょうはその73年目の記念日。
毎年行われている空襲体験者のお話し会が、谷中の家(台東区谷中3-17-11)であるという。

長野にいた小学校高学年以来、こういう話はかなり読んできた。十分に知識があるつもりだったから、今までとくに聞こうとはしなかった。
しかし私が上京し上野公園で傷痍軍人をみたのはまだ戦後30年、かれらは40代、50代。ところが、あれから43年たち、少なくなった体験者もご高齢、話を生で聞く機会は、もうないだろう。

この日は錦糸町のすみだ産業会館でダンスの競技会があったのだが、終わって急いで駆け付け、14時の開会に間に合った。

団子坂下

世尊院の向かいあたり

この日の会場は、中央に大きなテーブルがあり、その上に空襲の時の写真や、参考図書、過去の新聞などが展示されていた。

お話し下さったのは、
1.片山ふくえさん 85歳。終戦時女学校1年、昭和19年4月(小学校6年)親戚に疎開したが体調崩し、1か月で谷中小学校に戻る。その後、皆は会津若松に集団疎開したが、彼女は体調戻らず残り、空襲に遭遇。
2.一条さん 85歳。谷中銀座は兵隊さんが来て、家を壊し、今の3倍くらいに広げてあったので北からの延焼が食い止められた。
3.野沢さん 83歳。谷中小学校の講堂に爆弾。友達がいっぱい死んだ。3つ下の妹は疎開先で栄養失調で死んだ。
4.米本さん 89歳。飯能の食糧工場で勤労奉仕。米軍機の機銃掃射にあって、田んぼの溝に隠れ命拾い。
5.福田さん 90歳。従軍看護婦でルソン島へ。
6.熊谷さん(家は谷中瑞輪寺のとなり) 3月4日の空襲でどこかの寺から重い地蔵が飛ばされて庭先に落ちてきた。「これはたくさんの人の命と引き換えになったものだから大事に供養するように」と亡き父上から言われたとのこと。

この中の3人の方は、爆弾で吹き飛ばされた布団、衣服などが電線にぶら下がっているのを見たという。死体も飛ばされ引っかかっていたらしい。

惜しむらくは、主催者が自由に話をお願いしたことだ。
彼らは話のプロではないし、認知、判断力も若いころとは異なっている。3月4日の話がいつの間にか10日未明の東京大空襲の話になっていたり、戦争を憎むあまり、話がイスラム国や天皇制、自衛隊のほうまで行ってしまう方もいた。戦後生まれの男性が長々と東京裁判や御前会議に関し、素人的な知識を披露されたのには、ちょっと閉口した。

主催者側は、品のいい女性二人で、遠慮されたのだろうが、ここは仕切ってインタビューなり、誘導された方が、話される方も、貴重な体験談を披露できたのではなかろうか。

第二部は戦争かるたというのだが、どうも集団的自衛権の批判とか、戦争反対の文言。ちょっと苦手なので、途中で退出した。

この日は20度まで上がり、5月のような陽気。
まだ明るかったので、3月4日に亡くなった人のために建てられた三四真地蔵、十四地蔵、平和地蔵の写真を撮りに出かける。

谷中銀座はたいそうな人出、歩きにくい。
行列の店があるが、地元の人は行かない。私が住んでいた1980年ごろは完全に地元住民のための商店街だった。コロッケの食べ歩きなどもちろんなく、茶舗金吉園からお茶の香りが通りの端まで漂うような静かな通りだった。
今は、観光客と、彼ら目当ての店を開くもの、あるいは気に入って移り住んだ新住民、それから戦前からの住民と、さまざまな人々が混在する。

夕焼けだんだんの下を南に曲がる。
かき氷ひみつ堂は、道の反対側まで行列。

六阿弥陀道を谷中防災広場のところまで歩き、西に下るとみしま地蔵。


みしま地蔵は三四真地蔵。三崎町、初音町四丁目、真島町(私は1978年から3年住んだ)の谷中3か町の頭文字をとったもの。

続いて十四地蔵。
これはこの日初めて知った。
谷中小学校向かいの大円寺にあるという。何年か前、菊人形祭りに来たな、と思いつつ境内で探すも見つからない。
掃除をされていたご婦人に聞くと「あら、ひょっとして、あれかな~」と案内してくださった。
大円寺の門の中だが、いったん寺を出て細い路地を入っていく。まだこんな家が残っていたかという前を通り過ぎ、行き止まりの奥。

14人のために作ったから十四地蔵というらしい。

「さきほども、一人訪ねてこられたんですよ。何かあったんですか?」というので、命日だということを説明してあげた。

続いて千駄木坂下町の平和地蔵。
ここは日暮里駅から帰るときにいつも通るところ。
不忍通り沿い、100円ローソン、ブックオフのあるビルの一角。
ここには鹿島湯という銭湯があり、石炭倉庫を防空壕として使っていた。
3月4日朝、空襲警報が鳴ってそこへ避難したところに爆弾が直撃。
22人が一度に亡くなった。
亡くなった人の名前が書いてある。

平和地蔵の場所で不忍通りを渡り、大給坂を上って帰宅した。
今はイチョウだけ残る児童遊園になった大給子爵の屋敷にも、あの日、爆弾が落ちたという。


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