東武スカイツリーライン(もと伊勢崎線)、獨協大学前駅。こんな駅あったっけ?
これが正式駅名で副駅名が草加松原。
複々線とは初めて知った。
つい最近までこの駅は松原団地駅といった。
1962年、西側にできたマンモス団地のために開業した。
当時は団地というのは高嶺の花で、駅名もハイカラだった。
しかし2017年4月、草加市が近くの大学と名勝を使いイメージアップを狙って、改名したのである。獨協大学は1964年に来たが、半世紀以上たってようやく団地より認知される。
きょう、副駅名をみて、はっとした。
ずっと松原団地の松原の意味など考えたことがなかったが、「草加松原」と聞いて、千本松原の松原ではないか。
原っぱではなく、日光奥州街道の千本並木である。
駅から300メートル東に歩けば松並木にぶつかる。
並木は綾瀬川に沿って、南北に1.5kmつづく。
車道と交差する箇所にはおしゃれな跨道橋がかけられ、遊歩道の連続性が考慮されている。
駅からまっすぐ来る道にかかる跨道橋は百代橋という。
2018-04-21
奥の細道を知らなければ「百代橋」と聞いても、墨田川の「永代橋」と同じ意味のネーミングと思うであろう。この南には「矢立橋」もある。
芭蕉文学碑
「月日は百代の過客にして、行き交ふ年も又旅人なり」
草加宿は千住の次の宿場である。
1年前、千駄木から中山道を日本橋まで上り、そこから日光奥州街道を北千住まで自転車(→クリック)に乗ったから、このブログはその続きと言えなくもない。
松には一本一本番号がついている。
2種類の札があって、数字が少しずつ違うのは、ところどころ枯れたあとに、ふたたび番号札を付けたからであろう。
この並木はもちろん日光奥州街道であるから、そのまま国道4号として東京と北関東、東北地方を結ぶ重要な幹線道路となり、信じられないことだが戦後もバンバン自動車がそのまま松の間を通った。
1967年に草加バイパス完成。少し交通量が減るが、渋滞もしただろう。
1973年に国道からはずれ、県道49号、足立越谷線になる。
しかし、なお1982年まで上り車線は松並木の中を通っていた。
これでは松が枯れるのは当然である。
明治10年には806本あった松が、戦後の自動車普及で急激に枯死が続き、一時は60本余りまで減ったという。その後、地域住民により、松の植樹と手入れが行われた。
1983年には、並木内にあった県道を外側に移し、遊歩道とした。
現在、520本余りまで回復したとのこと。
2014年に国指定の名勝となる。
松並木の北の端。ここで車道と合流。
綾瀬川は日光街道に沿ってまっすぐ。
思ったより水はきれい。
思ったより水はきれい。
釣り人とカヌーの人がいた。
それにしても草加というのは川が多い。
芭蕉のころは一面、葦の原だったらしい。
松原団地のとなり、新田駅のあたりは、排水用の川を掘って水田に変えたゆえの地名かもしれない。
川は大小さまざま。
どれもほとんど流れていない。鯉が見えた川があったが、よく生きているなと思うほど汚れていた。
2018-04-21
東京なら、高速道路がよく掘や川の上を通っているが、ここでは逆で、外環自動車道をつくるとき同時に川を掘った。水害を防ぐために綾瀬川から中川に行く放水路である。
帰って来てから地図を見ると、新田駅の真東、綾瀬川の付近に端を発し、蛇行しながら東行する。
越谷市蒲生南町(下図の上部)と草加市八幡町(下図のピンク)の境界が入り組んでいるのは、この川を境とするからである。(グーグル地図を拡大すれば、川がみえる)
標高差がないものだから北に向かって迷走したりして、やがて南下、県立草加高校の西をとおり、外環自動車道を越え、最終的には西に向かい綾瀬川に合流する。
ピンクの部分が草加市。北は越谷市。
草加の松並木は、この河川改修を指揮した関東郡代、伊奈忠篤が植えたと伝えられている。
先月書いた伊奈忠次(→クリック)(1550-1610)から忠治(忠次の次男、赤山陣屋、1592-1653)、忠克(1617-1665)、忠常(1649-1680)、忠篤(1669-1697)、と4代あとの子孫である。
草加松原から彼の陣屋、赤山(川口市)までは5kmしか離れていない。
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