1989年、新潟に初めて来たのは神経科学学術集会。
ネットで調べると会場は新潟大学医療技術短期大学部。
ここは2003年に廃校となり、現在、敷地は新潟大学医学部保健学科になっている。
朝、いってみた。
古町の人情横丁、本町中央市場商店街の道を海のほうへ向かうと段々上り坂になるころ、左手に医学部保健学科の校舎が現れる。
2018-10-27
なんとなく見覚えある。耐震補強しているから、そのままの校舎を使っているのだろう。
この学会は私にとって印象深いものだった。
1988年6月に長尾研にはいり、新しいCa拮抗薬クレンチアゼムに取り組むこととなった。
しかし安易にそのまま薬効が保証された高血圧や狭心症の薬に開発すれば、自社品ジルチアゼムの市場を食ってしまう。
Caチャネルは神経細胞にもあることから、中枢神経系の薬の可能性を探るため、1989年には海馬神経細胞を培養したりして、グルタミン酸毒性に対するクレンチアゼムの保護作用など調べていた。
初めて来た神経科学の学会は面白かった。
例えば、電子技術総合研究所(現、産総研)で神経生理のグループを率いていた松本元が、ポスター会場(体育館)にいた。
彼らは膜電位感受性色素を負荷した脳海馬スライスで、興奮の伝わる様子を光学的に記録し(16x16個のフォトダイオードアレイ)、その様子を足元に置いたテレビモニターで披露した。
物理出身の松本は大言壮語の人というイメージがあり、シンポジウムや特別講演でしか話さないかと思ったら、ポスター会場で私のような若者に対しても、直接、少年のように楽しそうに自分たちの成果を説明していた。(彼は2003年、62歳で死去)
医療技術短期大学部のものらしい石柱発見。
しかしそれは細胞自体が死ぬよりも、シナプスに障害を受け、伝達がダメになると考えられる。
だからクレンチアゼムを脳保護薬として開発するなら、培養細胞の生存を見るより、神経伝達をきちんと測定する実験系を作らねばならない。しかし循環器グループはもちろん、社内の他の研究室にも神経の電気生理学をやっている者はいなかった。
そんななか、ポスター会場に、ちょうど海馬スライスのLTP(神経伝達効率の長期増強)を電気的に記録している人がいた。
東京女子医大の関野祐子。10年ぶりに見た。
薬学の1年後輩で、可愛らしかったから一方的に顔も名前も知っていた。
自己紹介して東京女子医大で見学させてもらうことを約束した。
私は33歳。
この少し前、89年6月に理解ある上司だった長尾さんは東大に転出し、仕事は以前のように進められなくなっていたが、一人でも未知の分野に突き進んでいける若さがあった。
つまり、循環から中枢に転向するきっかけとなった学会であった。
いつのまにか小雨もやんだ。
正面玄関に近づくと
この表札の剥げたところは、医療技術短期大学部とあったのではなかろうか。
剥げたまま残す、というのは記念としておしゃれだと思った。
当時、2日間の会期のうち、一人抜け出して海のほうに行った記憶がある。
海のほうへ行こうとすると、さらに坂を上る。
ここはもと砂丘だろうか。
上のほうに展望台のようなものがあった。
覚えている。
松林の間を歩いてこの建物に近づいた気がするのだが、記憶違いか。
水道局の管理で、無断立ち入り禁止という。
「日本海タワーは平成26年をもって営業を終了しました」
というから、その25年前の1989年は、人々が自由に入れて、松の木もあったのかもしれない。
さらに海側にいくと新潟県護国神社。
1989年、来た記憶なし。
参道の両側に様々な部隊や訓練校別の記念碑、慰霊碑が並ぶ。
これだけ多い場所は珍しい。
新潟は戦友会、遺族会がしっかりしているのだろうか。
と思ったら、「○○会解散の碑」などというのもあった。
そうだろう、ほとんどの碑は建てた人が生きておられないのではないか?
護国神社、神門は立派で新しい。
御創祀150年記念 御神門回廊御造営事業
竣工7月末日、竣工祭はこの2日後の10/29、
ほんとに作ったばかりだった。
社務所の隣にあった迎賓館TOKIWA
文化財のような結婚式場
護国神社の反対側、
松林に入ってみたが、1989年に入ったのは、もっと広々と明るかった気がする。
護国神社のところが一番高くて、坂を下りると海。
佐渡は見えなかった。その先にはウラジオストクがある。ロシアまでの距離は北前船の行った蝦夷や下関と同じくらい。
戦前かの地は日本人も多かったから、戦争がなければ、新潟はもっと発展したに違いない。