2018年10月28日日曜日

長岡1・小金井、河井継之助

薬史学会で新潟に行くことになった。
参加だけなら早朝出て少々遅れてもいいのだが、朝の講演を頼まれた。
会場でスライドチェックなどしたいので前泊とする。

ちょうど星新一『祖父・小金井良精の記』を読んでいた。
小金井家は、長岡藩主牧野家7万4千石の、三河以来の家臣。150石。

小さな藩であるから1000石以上の家老5家(稲垣、山本、牧野など)から、100~200石程の家臣(小林、河井、三島、高野、、)まで、みな長年にわたる養子縁組、婚姻などで親戚関係にある。

例えば小金井家も7代目良和は、家老の山本家の次男である。しかし山本家に後継ぎができなかったことから、山本家に戻り、良精の父となる8代目の良達は小笠原家から養子に入っている。
またこの8代目は小林虎三郎の妹、幸と結婚している。つまり星新一の祖父、小金井良精の叔父は、あの米100俵の人である。
小林家と河井家も親戚。

なお、こういう関係は明治、大正になっても続き、1915年、跡継ぎのなかった山本家に養子に入って継いだのは、31歳になった高野五十六だった。

星新一は、さすが読みやすい文体で祖父良精が子供のころ逃げ回った北越戦争から書いている。司馬遼太郎『峠』を久しぶりに思い出し、長岡に行ってみたくなった。

また、この本は、父の星一(星製薬、星薬科大学創設者)や祖母の小金井喜美子(鴎外の妹)でなく、東大解剖の初代教授、良精の伝記であることから、明治初期の医学界のことがよくわかる。

明治初期、まだ大学東校や東大で学んだものが一人前になる前、我が国の医学界で重要な働きをしたものをあげれば、佐藤泰然、松本良順らがいるが、医学校、医療制度の整備にあたり中心にいたのは石黒忠悳(1845 - 1941)長谷川泰(1842-1912年)、相良友安、岩佐純らであろう。
このうち、石黒と長谷川は長岡の人である。
以前ブログにも書いたが川上元治郎や、東大を出てのちの東京医科歯科大をつくった島峰徹(1877 -1945)も長岡である。
そうだ、江橋先生の師匠、田辺製薬の薬理の顧問でもあった熊谷洋先生もずっと後だが、長岡出身。

そんなわけで、ますます長岡。
10月26日、朝から慌ただしく仕事して、13:42大宮発の新幹線に飛び乗り昼食。
長岡にはじめて降りる。15時ちょうど。
駅ビルから一歩出れば、長野や新潟と全然違う。
広い歩道は車道より一段高く、上に大きくせり出した屋根、全て雪対策であろう。

商店街も飯山などによくある雁木。
これだけの近代都市で見るとは思わなかった。
長岡戦災資料館
まずここに入った。
長岡は昭和20年7月まで一度も空襲に遭わなかった。
ところが、7/20、 8:13、初めて長岡にB29が単独で侵入、1発だけ爆弾を落とした。原爆投下の練習をした模擬爆弾(パンプキン、長崎型)であった。7/26にも訓練があったが天候不順でうまくいかず、結果的に新潟は原爆投下地候補から外された。

しかし、8月1日、初の本格的空襲、無差別爆撃925トンの焼夷弾。
戊辰戦争で焼け野原になって、ようやく復興したのに、再び市街地の8割が焼け野原になった。死者1486人、と簡単に書けるが、1486以上の悲惨なドラマがあったことだろう。

DVDもすすめられたが、先を急ぐ。
歩いてすぐ目につくのは、道路のさび。
タイヤにまいたチェーンからでた鉄粉が原因であろう。
中央には溶雪パイプが埋まっている。
錆は壁にまで

次に向かったのは河井継之助記念館
120石の河井家に生まれながら、幕末の非常時に筆頭家老に抜擢される。
長岡藩というのは実力主義の開明的な藩だった。

長岡では明治以降、西軍に焼け野原にされたのは河井継之助のせいだと、彼をよく思わない人も多かったらしい。
辛い目に遭った人もなくなり、1966-68年の『峠』で見直されて郷土の誇りとなる。
市制100年記念の一環として記念館が2006年オープンした。

河井家の屋敷跡にありながら、二度にわたる戦火で当時の建物は何もない。





私はもともと熱心に展示品を見るほうではない。
二階に会津への避難経路のパネルがあった。

慶応4年5月の激突で城下は戦火につつまれ、女子供は、東へ東へ避難した。
小金井良精は9歳。
身重の母、兄、弟、妹と、着の身着のまま、山道を逃げ東の栃堀村に。
農家の粗末な小屋など借り、そこも危なくなるとさらに奥の塩谷村へ。
7月に味方は城を奪還するも、再び陥落、河井継之助も負傷、会津を目指して敗走が始まる。8月、あちこちバラバラに避難していた女子供たちも、敗残兵と合流、会津を目指す。

ここからがパネルになっていた。
途中、継之助は傷が化膿、目の前で下男に自分を焼く薪を組ませている。
平地8里を歩く10倍もかかるという八十里越え難所を空腹の避難民、負傷した敗残兵は越え、会津領の人々に助けられながら、若松にたどりつくころ、すでにそこも戦火につつまれ、長岡の人々は北の米沢を目指す。

秋深く、紅葉濃くも、飢えと寒さはいかばかりであったか。
米沢の上杉家は西軍との和議を交渉中ということで、留まれず、長岡の殿様が仙台にいるということで、旧暦9月には雪が舞うなか、さらに山道を東へ向かう。
仙台では寺に収容され、ようやく年末に和議が整い、長岡に戻るもすべて灰になっていた。

DVDは勝手にボタンを押してみることになっている。
壁には来訪有名人の色紙。ほとんどは誰だかわからない。
「今でしょ。林修」は読めた。
よく記念館の人は誰だか分かってお願いできたな、と思うようなマイナーな人もいた。
学芸員の方はいらっしゃらなかったが、係の人に聞いたら、庭の石灯籠は、継之助の父の時代からのものという。
隣のマンションの方まで河井家の屋敷地だったそうだ。
常在戦場をモットーとする三河武士は自分の家で野菜など作っていたようで、120石でも敷地は広い。一般の人の所有であったが、市が買って記念館にしたという。

暗くなる前に次に急ぐ。

なお、つぎのすけ、と読む。


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