両日とも歩きだったので、前回気が付かなかったものが目に入った。
日本医大の「別館」(→)と拡大について、である。
病院の西側、わずかばかりの距離に幾つもある。
2018-11-22
日本医大 事務局別館
これなど、あたかも民家を居抜きで買ったよう。
道路だけ?
日本医大 弥生2号館
表札なし。たぶん看護師寮
以前は根津神社の東隣、今の大学院の場所にあった。
この奥に何かあるらしい。
この日、医図書で古い日本医事新報を見ていると、
「新東京・医学気まぐれ散歩」(S.M生)というシリーズがあった。
1448号(昭和27年)に日本医大の拡大について書いてある。
その内容は、
・明治45年に旧制専門学校となり、そのうち大学に昇格するのがわかっていたのだから(大正15年昇格、私立医科大御三家)、必要な用地買収は、家がないときにしておくべきだった。
・大正12年の震災前まで坂上の敷地から藍染川が見えていたほど人家がなかった。しかしすぐに民家が立て込んでしまう。このときの出遅れが後々苦労するもととなる。
・空襲で一面焼け野原になった戦後に、チャンスとばかり活躍したのが1928年から30年間もの長期にわたり学長を務めた塩田広重(1873- 1965)。
・崖下に鉄筋コンクリート4階建ての病院を作ろうとしたが、根津神社が国宝(旧基準)だったため3階に変更。
・惜しむらくは道路側の民家が土地を売ろうとしたのに、書記が断ってしまったこと。そこに銭湯、浜田湯が建ち、1984年ごろ廃業するまで道路側は取得できなかった。
翌週の1449号「新東京・医学気まぐれ散歩」は「根津権現界隈」。
ここで神泉病院と日本医大の関係について、初めての話を読んだ。
・神泉病院は根津遊郭で有名だった大八幡楼をそっくり使用、看板だけ変えた病院。
・明治45年、日本医専ができたとき、この病院の院主だった滝沢竹太郎が、病院を医専付属として寄付することと引き換えに理事に納まった。
・ところが大正3年、振る舞いが良くなく、青柳登一が校長になったとき、理事を辞めさせられた。そのとき、神泉病院を返せ、となり、滝沢と日医の縁は切れた。
・昭和27年、この場所は空き地だったという。
となると、前回書いた(→)専売公社根津工場というのは、そのあとだろうか?
2018-10-14
しかし根津神社隣の神泉病院跡地は、結局、日本医大が取得した。
いま大学院の校舎になっている。
この1449号には他にも話があって
滝沢と並ぶ豪傑として磯部検三というひとがいた。校長並みの実権あり。
大量落第生が出た大正5年3月の学期試験で学生が再試験を要求、磯部が蹴ったため、磯部排斥のストライキ起こる。すったもんだのあげく5月、427名の学生を除名処分、その結果、今の東京医大の前身、東京医専が生まれたという。
以上は昭和27年の日本医事新報にあった話だが、
日本医大の殿崎らは日本医史学雑誌(2005)で、違う話を書いている。
明治37年の設立以来、日本医学校の校長だった山根正次は、朝鮮総督府の衛生顧問となり、留守をかつて自分の書生だった磯部に任す。
大正3年に磯部と神泉病院主の滝沢竹太郎は権力闘争を起こし、滝沢が敗れて神泉病院を携えて日本医専を去る。
その結果、学校は内部崩壊し、文部省の無試験での開業資格指定を受けられなくなった。
大正5年、開業資格が得られなくなった学生が抗議運動をおこし、退学、東京医専を作ったという。
神泉病院は、新宿中村屋の話で出てきた戸張弧雁が結核で入院している。
千駄木菜園 総目次
以上は昭和27年の日本医事新報にあった話だが、
日本医大の殿崎らは日本医史学雑誌(2005)で、違う話を書いている。
明治37年の設立以来、日本医学校の校長だった山根正次は、朝鮮総督府の衛生顧問となり、留守をかつて自分の書生だった磯部に任す。
大正3年に磯部と神泉病院主の滝沢竹太郎は権力闘争を起こし、滝沢が敗れて神泉病院を携えて日本医専を去る。
その結果、学校は内部崩壊し、文部省の無試験での開業資格指定を受けられなくなった。
大正5年、開業資格が得られなくなった学生が抗議運動をおこし、退学、東京医専を作ったという。
神泉病院は、新宿中村屋の話で出てきた戸張弧雁が結核で入院している。
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