2019年2月27日水曜日

アブラナ科の属と種

アブラナ科って有名。
いま、うちのミニ畑も多くがこれ。

「アブラナ科」は植物分類にまったく関係ない人もよく使う言葉になっている。
キャベツと白菜の連作障害とか、
根が太いから腐るとミミズが増え、モグラがくるから堤防に菜の花を植えてはいけない・・・
とか。

今年初めて小松菜を作った。
大きくなった小松菜を生でかじったら野沢菜そっくりの味。
同じアブラナ科の白菜やキャベツとは全く違う。
(小松菜はみそ汁、野沢菜は漬物だったから比較したことがなかった)

科の下には属、種があるから、相当いろんなものがあるはず。
小松菜と他のアブラナ科野菜との距離を知りたくなった。

2019-02-23 小松菜

簡単にアブラナ科というが、調べると
25連に338属もある。
ここにはナズナやワサビは入るが、レタスは入らない(キク科)。
なお、連(れん)とは科の下、属の上。

なじみの野菜が含まれる連を見れば、
Brassiceae DC. アブラナ連に46属230種。

46属のうち馴染みなものを書けば
・アブラナ属 Brassica - カラシナ・ハボタン・キャベツ・ブロッコリー・チンゲンサイ・ミズナ・カブ
・エダウチナズナ属 Diplotaxis - セルバチコ
・キバナスズシロ属 Eruca - ルッコラ
・ダイコン属 Raphanus - ダイコン
など。

そうか、大根とキャベツは属から違うんだ。
カブがダイコン属でなくてアブラナ属とは思わなかった。

2019-02-23 キャベツ(苗)と白菜

ダイコン属は放っておいて、
アブラナ科アブラナ属。
これは30種くらいあり、(この種というのは属の下という意味)
たとえば、
B. juncea - カラシナ、タカナ、ザーサイ
B. napus - セイヨウアブラナ、ルタバガ
B. nipposinica - キョウナ
B. oleracea - ヤセイカンラン、ケール、カリフラワー、キャベツ、メキャベツ、ブロッコリー、ハボタン
B. rapa - アブラナ、ミズナ、カブ、ノザワナ、コマツナ、ハクサイ、チンゲンサイ
などの種がある。

生物というのは属名プラス種名で表すから
キャベツとカリフラワーは同じ種、また野沢菜小松菜白菜は同じ生物種となる(つまり学名同じ)。
同じ種なのに何が違うかというと、変種、品種が違うということだ。

長い年月をかけて、同じ集団の中に見出した変わり種を単離し、それが固定されて栽培品種になったものだろう。
2019-02-25 大根と小松菜

野沢菜は、京都のカブの変種と言われたが(近年遺伝子検査で否定された)、なるほど分類学的にはカブと同じ種だったんだ。

同じB.rapa種の中でも、小松菜、野沢菜は実際近く感じるが、白菜は同じ生物種に見えない。
遺伝子検査のできなかった昔、どうやって種を分類していったのだろう?
まあ、難しかったから分類学という学問ができたのだろうが。
近年になって分類が変わるのももっともな話だ。

ところで、種が同じなら交配(植物は交雑という)できるはず。
小松菜は、キャベツとはできないが白菜、カブとは雑種を作るということか。
もちろん、今から千駄木で新種を作る気はないが、中学生のころ職業として考えたことがある。

農家の長男だったから跡を継がねばならかった。
趣味が盆栽とサボテンだったから普通の子供より土いじりは好きだったが、ただの百姓は嫌だった。須坂園芸高校を出て農事試験場みたいなところで品種改良をしたいと思っていた。

その気持ちは大学進学後もほんの少し残り、理学部植物学教室を希望した。しかし点数が足りなかった。
薬学にしたのは、農業、植物から離れることを決めたからだが、1年半後に研究室を選ぶ際、生薬・植物化学教室にしたのはまだ少し未練があったのかもしれない。


処分せずにとっておいた古い本のうしろに買った日付が書いてある。
「カラー植物百科」は 1976.11.17だから薬学進学に決まったとき買って、
「原色日本野菜図鑑」は 1983.4.21だから長野に帰らずこちらに就職して2年、会社の寮を出て尾山台団地にはいったとき、大宮ステーションビル(現ルミネ)で買った。


千駄木菜園 (庭・植物)目次 (庭と野菜つくり)

千駄木菜園 (総合)目次

2019年2月26日火曜日

キャベツ苗の地植え

2019-02-25
3月下旬並みの暖かさが続き、春キャベツの苗が大きくなってきた。
まだ蝶が飛ばないから植えかえてネットに入れる必要はないが、これ以上大きくなると根が鉢から出て、移植に都合悪い。

そこでポットから地植えすることにした。
場所は、秋にまいた人参、ほうれん草の失敗畑。
2019-01-27 
秋以来、遊休地と同様のありさま

2月23日残っていたほうれん草と人参をすべて抜く

2019-02-23
かじると甘いのだが小さくて妻は使ってくれない。

2月25日、早起きして整地する。
奇しくも去年と同じ日、同じ場所。
狭い庭だから連作障害の心配など無視。

2日前に掘り起こしたばかり。
もう一度掘り起こして土に外気、日光に当てようかな~
しかし大差ないだろうと平らにならして、植えていく。

2019-02-25
苗は明らかに日当たりのよかったものの方が発育良い。
もともと、育ちの悪い苗を捨てるのが惜しくて白菜の間に置いていたのが、日当たりで逆転した。

生育速度は、一定ではなく葉の量に比例すると思うので、植物量はシグモイド曲線で増加するだろう。桜などの葉が出て日照が減る前にできるだけ大きくしたいから、葉の多いものを優先して植えていく。
株間40センチ。
4メートルの畑に2列、21株植えた。
 ネットはまだ必要ないが、猫よけである。
キャベツは株間30センチほど密に植えたほうが生育するという。
本当だろうか。
神経細胞の初代培養などは濃くまいたほうが発育する。
キャベツも栄養因子などを周囲に放出するのか?

苗が余った。
生育実験に使いたいが土地がない。
欲しい人がいれば差し上げるのだが。

2019年2月25日月曜日

雨水のころの菜園

雨水は、アマミズと読めば指扇プラザ時代の雨漏りを連想させる身もふたもない言葉だが、ウスイと読めば暖かくなってくる二十四節気の一つで気分が良い。

暦の2月19日頃の時点(太陽黄経330度)を表す場合と、次の啓蟄(345度)まで15日ほどの期間を表す場合とがある。

今年は雨水にふさわしく暖かい。
野沢菜みたいな小松菜
立派でもったいなくて株ごと収穫できず、
外側の葉っぱを少しずつとって使っている。

育たなかった白菜。鍋には2つ使う。
葉っぱの間に土が入っていて、洗う人は文句を言う。

今年も育たなかった人参。
いつしか私の関心がなくなった庭の一角。

小さいけれど齧ると旨い。
やりようによっては珍しい食材になるだろう。
しかし妻はいつもの料理しかせず、これらは使わない。

以上、2月17日の写真4枚。

2月19日、田辺の研究所に朝採れの大根、白菜を持っていく。
2月21日、大根自家用に抜く。
2月23日、キャベツ用に人参畑を掘り起こしながら写真撮る。

この場所で一本だけ育った小松菜。

この厚くて大きな葉で巻けば、ありふれたものでも新しい料理になると思うが・・・。
私が持っていく弁当の上にこの大きな葉を敷けば、脂などが蓋につかなくて洗うのが簡単。そんな使い方しかない。

こちら、2か月遅れ、11月にまいた小松菜も肉厚に育ってきた。
同時にまいた遅まきホウレンソウは、小松菜の列の間で負けている。

30株くらい植えた白菜の中で、珍しく玉になりかけたもの。
もったいなくて取れない。
左は秋まきキャベツの苗。

我が家では普通の白菜。
日当たりが不足すると、葉っぱは精一杯光を求めるように巻かずに広がる。

小松菜の葉が厚くて緑が濃いのも、日照不足に対する適応かもしれない。
人間と違って、日蔭だと色白モヤシになるわけではない。

以上2月23日

2月24日、朝からダンス競技会に出発、庭に出ず。

2月25日、月曜くもり、早起きした。
ふきのとう。
「白い冬」は1974年リリースという。
75年から79年、駒場、本駒込、谷中のころよく聞いていた。
歌詞はもちろん秋の終わりでフキノトウは出てこない。

妻が植えたチューリップ
昨年掘って小さいものが多かったから、どのくらい咲くか。

大根は育ったものから順に抜いて大分寂しくなった。

大根は春になると葉が茂る。
あらたに作られる栄養で根は大きくなるのか、
それとも新しい葉を出すために根は栄養を供出して小さくなるのか、
数年考えているが、まだ分からない。

2019-02-25 左から、
この日、キャベツ地植えのため邪魔者として抜かれた1株だけのほうれん草。
同じく邪魔者として抜かれた分葱(ラッキョウ?エシャロット?)
市販品よりうまい(と思う)大根。測ったら600グラム。
妻のスムージーならこれで十分ではないか?と大根の葉っぱ。
爪に土が入るので最近はめるようになった軍手
庭でなら使える100円ショップの包丁。

週1の鍋以外、妻は私の野菜を欲しがらない。
何か要るものない?と聞くのはやめて、
とりあえず、台所に持っていく。

次の二十四節気、啓蟄まであと8日。
虫が出てきたらやだな。
消毒はほとんどしない。(有機農法とかではなく、ただ面倒だから。)

この菜園は、桜、ハナミズキなどの落ち葉が降り積もるから、虫が産卵しやすく、コガネムシの幼虫から見たこともない不気味なウジムシまで、微小動物の宝庫。
それが農家の畑と大きく違うところで、狭さ、日当たり悪さとともに三重苦の一つになっている。

そうそう、旧暦というのは月の形で日を決めたが、永遠連続して繰り返される朔望月の、どこが正月でどこが12月か、というのは太陽黄経で決める。
年の始まり1月は、文字からしておめでたい立春(315度)ではなく、次の雨水を含む月をあてた。
草木を含む万物が始まる月の基準日として、雨水は二十四節気の中で特別なのだ。

2019年2月24日日曜日

戸田公園駅2酔月園から転職まで

田辺三菱製薬を後に、駅に向かう。
よく考えると在職中、帰りは朝と違ってみんなが通る県道沿いの道だった。
正門出てすぐ前の戸田寮の横は戸田市の福祉センタ―。
遠くに中華「柳花」の看板。ここはよく使った。

川口からくる前新田循環のバスは、戸二小通りをきて、「川岸二丁目・田辺製薬前」をすぎ、今は東部センター通りというらしいが、通りにぶつかり北に曲がると「下戸田稲荷・スズキ布団店前」で止まった。
布団店が今もあるかどうか確認しなかったが、このご時世、たぶんないだろうな。

下戸田稲荷は交差点の向こう、ずっと先にあり、おそらく田辺の人も知らないだろう。
日露戦争の碑かなんかあったような気がする。
バス停近くの酔月園はまだあった。
82年から社内野球チーム「ビーグルス」に入った。
同じ敷地の東京工場の野球部は経験者ばかりであったが、こちらは研究所のチームだから親ぼくを目的として皆優しかった。婚約者とか新婚の奥さんを連れてくると先発メンバーに入れてもらえた。
休日の練習や、戸田市の大会などは午前中だから、終わるとたいていここ酔月園でビールと食事だった。
汗をかいた後の反省会、祝勝会で席を常に盛り上げてくれた高橋さん、倉部さんは亡くなられた。静かで優しかった島津さんも亡くなった。残ったものは孫とキャッチボールでもしているかな。

野球すなわち酔月園と縁がなくなって久しい1997年1月、長尾研にコロンビア大学からH.Mが研究に来た。長尾さんが会社の誰か(私の上司ではない)に頼んで、戸田寮に(無料で)滞在させてもらうことにし、私は彼から(私的に)世話を頼まれた。
思ったよりきれいな寮の部屋を見せた後、夕食はこの酔月園で食べさせた。会社の業務でもないし、私の友人でもないが割り勘というわけにもいかず、私が払った。ところが彼はそれが当然のように一言もお礼を言わなかった。
その後すぐ、東大に空きのパッチクランプ装置がないからと、実験を田辺ですることになり、私が自分の装置を貸し、カエルの卵母細胞を取るところから教えた。どんなテーマだったか長尾さんからもHMからも説明もされなかったし、こちらも聞かなかった。(今思えば当時は上司も一切関知せず私が勝手に外部の人に実験させているというおおらかな時代だった。)
帰国する前は家にも招待したが、もともと口数の少ないせいもあるが、とうとう何の感謝の言葉もなく、変わった男だった。これが酔月園の記憶。

酔月園まえの角を入ると、さつき通り商店街。
あれ、鈴木布団店があった。
昔から歩いていたのに気が付かなかった。

同期会を一度やった喫茶軽食パラダイスはまだあった。
しかし、よく会社の宴会で使った養老の滝(途中から違う居酒屋になったかもしれない)、寿司や、書店などはなくなっていた。

ところで、こんな何もないところに、なぜ商店街ができたか?
恐らく東京オリンピックで戸田ボート場ができて、競艇が始まり、その最寄りのバス停留所からボート場への途中だったからだろう。
実際、私も1977年、78年、薬学ボート部にいたとき、この「~スズキフトンテンマエ」で降りて、パラダイスや17号近くの食堂(とんかつ、うどん)で食事した。


さつき通りは17号にぶつかる。
このローソンはいつできたか忘れたが、食堂に行かなくなってから昼は指扇駅前で買ったおにぎりやパンであったが、朝買いそびれるとここに寄った。

そんなことより、17号の向かいが「すき家」になっていた。
ここに80年代後半、不二家系列のブロンズパロットがオープンした。
この辺りではオシャレなレストランで、86年、中原さんと食事したことがある。
当時は今のファミレスとは違い、子ども連れや中高生はいなかった。

となりにサーティワンだったか、バスキン・ロビンスだったかアイスクリーム店があった。今調べたら、同じ会社で日本では31、アメリカではBRというらしい。不二家との合弁会社が運営していることから隣にあったのだろう。

ブロンズパロットはいつしか不二家レストランとなった。
いつすき家になったのかは知らない。
17号で眼を戸田橋方面に転ずると、まだ銭湯が残っていた。

1977年、78年、実験をおえて翌朝の練習のために夜、戸田の艇庫に泊まりに来る。
合宿所の風呂が使えなかったのだろうか、ここの銭湯に入ったことがある。
銭湯の隣の「あたりばちラーメン」を食べたこともある。
歩道橋を渡って降りたところに「インディアン」みたいな名前の食堂にも何回か入った。

当時まさか田辺に就職するとは思わなかった。

「あたりばち」「インディアン」とも、田辺に入社した80年代以降も営業していたどうか不明。

銭湯の並びの「ぽんぽこ」は、ある時期から養老の滝よりよく行くようになった。いろんな人の顔と会話が思い浮かぶが、今あるかどうか確認しなかった。
17号を北に向くと、安楽亭。
両手にダンスの荷物を持ち小走りで駅に急いでいた時、安楽亭の前、横断歩道の真ん中で派手にころんだ。
その傷は今も手に大きく残る。

その交差点の西南の隅はマンションにでもなるのだろうか。
この場所、31アイスクリームの隣はゴルフ練習場だった。
パロットスポーツと言ったがブロンズパロットから来ているのだろうか、不二家がゴルフ練習場も経営していたか?と調べたら、「パレット」スポーツだった。

17号の交差点から西に歩けば埼京線の高架にぶつかる。
線路の両脇の空き地がいつしか細長い公園になったが、実際は道路と並行する歩道の役目をしている。

駅に着いた。
改札横の丸亀製麺は2013年当時、Vie de Franceだった。
イートインになっていてお茶も飲めた。

ここで転職先の人と面談したことがある。

昔の手帳を見れば、
2012年8月、裁判所の非訟事件手続きで1年以上かかった千駄木の家が決着、本契約。
9月からは、リフォーム会社4社と現地視察、さらに各社の間取り、予算などの提案を受けて、面談を繰り返し、リフォーム会社を1つに決め、プラザの家の売却にも手を付け始めた。
一方で毎日のようにダンスのレッスンと練習。
仕事は、相変わらず現場で、おもに自動パッチクランプ装置 Barracudaを使ってASIC, TRPA1, KCNQ4などの電流を測っていた。
翻訳は『サルファ剤』が終わり、最後となる渾身の力作『第四の大陸』の真っ只中。

その忙しい時期に、突然、転職の応募書類を出した。
薬科大学と文系の大学1つずつ。
定年まであと4年、今やらないと定年退職になってしまうからと。

10/24、薬科大学の方から連絡あり、面接したのがこのVie de France だった。
朝9時。
首尾よく終わり、そのあと出社するため改札で別れた。
少し歩いて振り返ると、Y氏はまだ別れた場所でこちらを見ていて、深々とお互いにお辞儀した。
行こうかな、と思った。

しかしその後大学で行われた2回の面接で想像以上に年収が下がることが判明、千駄木の家に金がかかることもあり、なかったことにしてほしい、と断った。

その後、仕事・リフォーム・翻訳に専念していたところ、Y氏から連絡あり、12/9、日曜15時、与野本町ゼフィールでレッスンを受けた帰りに、再びこのVie de Franceでお茶を飲んだのである。

今度はホームに一緒に上がり、挨拶して別れ、私はいつも乗る場所へ歩いて行った。
だいぶ歩いて振り返ると、彼は再びこちらを見ていらして、やはり遠く離れたところでお互い深くお辞儀した。
条件が変わったわけではなかったが、必要とされるならやっぱり行こうかな、お金はどうでもいいや、と思った。
そのVie de Franceは、むかいのショッピングモールBeansの中に入っていた。

コージーコーナーはVie de Franceに押し出される形で場所が変わっていた。
ホワイトデーのお返しはここの詰め合わせチョコを買った。


Beansのテナントは結構変わった。
1階はスーパーの安っぽい衣料品売り場のようであったのが、少しおしゃれになった。


惣菜店が新しく入っていて、めっきり増えたマンションの共稼ぎ、若夫婦の需要にこたえているようだった。
書店は昔のまま。
100円ショップとマツモトキヨシは場所が変わっていた。

書店の奥に、よく利用していたQBカットの看板が昔と同じようにみえた。

ここを歩いている人にとってはなんでもない景色でも、離れてしまった私には何十年分ものシーンが重なっていた。


千駄木菜園 総目次

2019年2月23日土曜日

戸田公園駅1田辺製薬までの道

2月19日、以前いた会社にいくため、戸田公園駅に降りる。

2013年、3/29(金)の通勤最終日、4/7(日)の代謝研同窓会で降りて以来、6年ぶり。
わずか6年間しか経っていなくとも、1985年から2013年まで、長い間毎日使った駅だと、ひどく懐かしい。

朝8:30すぎ。
知っている人がいないか少し緊張するも、あえて探さず。
改札内の日高屋
2013年のときは日高屋だったか、別の店だったか思い出せない。

右側はかつてVie de Franceだったが。
同僚に昼のパンを買っていく人もいたが、むさくるしい中年男性としては場違いな気がして一度も入らなかった。

会社の大部分の人は、改札でるとまっすぐ階段を下りて、線路の脇を東南に歩くが、私は反対の階段を下りた。
こちらは、社内の苦手な人と一緒になることもないし、交通量も少ないし。
1,2分しか違わない。

花壇も懐かしい。

この花壇、出来たばかりのころ、デリカシーなく斜めに横断する者が多く、踏み固められ小道ができてしまった。パンジーなど植えた係の人は、住民のモラルの低さを嘆いたことだろう。
その後、当局は仕方なく美観を犠牲にして花壇の中に大きな敷石を並べた。
ところが、すれ違うときに敷石では狭くて敷石をおりるのか、あるいは最初から乗らないのか、敷石の両側がやはり踏み固められて道ができた。
きちんとした身なりの人々が、何も感じていないように、花の脇を踏んで改札に急いでいた姿が目に浮かぶ。

いま、6年後に見ると木が育ち、柵もあり、入る人もいないようである。
住民も変わったのだろうか。
埼京線は1985年9月30日(月)(昭和60)に開業した。

1981年に入社して、最初は川口駅からバス(前新田循環)、その後は西川口駅から歩いて通っていた私も、この日以来この駅を使うようになった。
当時は結婚して1年5か月、上尾の瓦葺団地から東大宮に出て大宮駅で乗り換えた。

駅の開業初日は月曜。
菅原さんは会社が線路の東側ということで東方面にずんずん進んで戸田中央病院まで行ってしまったそうな。地図を見ると両方とも線路の東側だが、90度ずれている。
埼京線はもともと何もないところに通したから、このような農家のような家が駅の真ん前にある。

この場所に出ると、駅から大量に湧き出た人々もきれいに消え、同じ会社の人だけ2,3人歩いている。
仲のいい人だと追いついたり、待ったりして一緒に歩いた。

みんなが歩く線路の脇の道は、じきにうるさい県道沿いの狭い歩道になるから、
大塚さんは「この道の方が人間らしいな」と仰った。
彼は、同じ薬物代謝部門の主任研究員であったが、上司ではなかった。
まだ20代だった私に、道中いろんな話をしてくださった。

会社のことや前の夜に読んだ本のことなど。
私に合わせて長野出身の学者や有名人の話。
ときに
「液クロから出てくるアミノ酸の検出はどうしたらいいだろう?」
「あの空の雲は、どうして拡散してしまわないのだろう? なぜ白い塊でいられるのだろう?」
答えられないと、あとで調べ、翌朝この道で答えたりした。
ネットがない時代だからむしろ勉強になった。
大塚さんは一度も私の上司にならなかったが、斜め上からずっと暖かく見守ってくださった。
古本屋 倉野書店はまだあった。
その向こう、戸田南小学校の手前、中華キッチンtakaは、かつて居酒屋「まつしま」で、そのとなりにスナックがあり、92年の暮れか93年1月、工藤さんに連れて行ってもらった。中国人のホステスがいて、当時は中国人も珍しく、私もまだ中国語が少し話せた頃だった。そのとき文献の裏に落書きした中国の地図が引越しのとき出てきた。

このあたり、東に向かう人は我々くらいで、ほとんどの人々は駅に急ぐ。
たいてい同じ人と同じ場所ですれ違う。
90年代終わりだったか、中にきれいな人がいた。30歳前後の共働きの女性という感じ。
向うも当然私に気付いていたはずである。
それでも彼女は正面を見たまま表情を変えない。でもどうも意識しているような気がして、あるとき平野氏に「かわいい人がいるから」と一緒に歩いてもらった。
すれ違いざま、彼は驚いたように、そして嬉しそうな顔で、「間違いなく意識している」と言ってくれた。

次の関心はどのマンションから出てくるか?
少しずつ、すれ違い地点を彼女の家の方に近づけていけばよい。
埼京線は本数が少ないから1本前の電車でいって時間をつぶし、いつもの電車が着く時間が近づいたら歩き始めれば、出会い地点は早くなる。しかしそんなストーカーのようなゲームはしなかった。
私自身もっと遅い電車になってしまい、すれ違うことはなくなった。
今彼女はどうされているだろうか?

17号の手前、大熊撚糸という門柱がまだあった。
ロイヤルホストの駐車場だが、大熊撚糸が廃業した後、土地を貸しているのだろうか。
廃業後、一角に社長の家があったが、今はない。
社長は手打ちそばの修行をしていたという話を大塚さんだったか誰かから聞いたが、その店が、隣のマンションの一階にある「そば処・前新田」だろうか。

ロイヤルホスト。
中原さんから「九州ではロイヤルといった」と聞いたから86年にはあったと思われる。

ここは飲み会代わりに朝食をよく食べた。

飲み会はそんなに好きではなかった。
会社というのは40を過ぎると昔仲の良かったものも進路が分かれる。
同年輩のものは、出世コースから外れて転勤してしまうか、あるいは偉くなってヒラの私と話が合わなくなるか、どちらかだった。
夜はダンスのレッスンと練習で週5日は踊っていたし、それがない貴重な日は一人で翻訳をしたかった。飲みにいく理由はなくとも行かない理由はいくらでもあった。

そんなことで、不義理を何年も続けていたら、岡田さんから朝ごはん一緒に食べましょうと誘われた。
この近くの居酒屋「おけさ」で焼き魚、納豆、海苔、たまごで500円だったな。彼女と二人のときもあるし、山本達郎を入れて3人のときもあった。
その後おけさが飽きてロイヤルホストになった。
彼女は早期退職してエステサロンを開くのが夢で、そんな話をした。
仕事があるから8時から9時まで時間限定。1時間もあれば、たいていの話はすむ。夜延々と飲む必要もないし、食べ過ぎて朝食欲がなくなるということもない。

退職前、一緒に仕事した秋山さん、森村との最後の会食もここの朝定食だった。
秋山さんには夫婦茶碗と箸のセットをもらったから、最低2回は来ている。

国道17号をわたるのに、歩道橋の人と車道を突っ切る人と二種類いた。
突っ切るには右見て左見て、技術がいる。
そんなことに気を使いたくなかったので27年間のほとんどは歩道橋を渡った。

戸田は低地で、80年代はここも蓋をされた水路があり、
その両側が道路だった。
車道の真ん中が歩道になり、歩くとコンクリートの蓋ががたがた鳴った。
柳の並木はいつしかケヤキに変わり、それも大きくなると一部撤去された。


このあたり、ケヤキが切られている。
水路の歩道が終わるバス通り、角のコンビニがドミノピザになっていた。

この景色はほとんど変わっていないが、昔歩いていた人は誰もいない。
私に近い人は定年退職したし、度重なる早期退職の募集、横浜研究所への統合などで、知っている人は少なくなっている。