2019年3月23日土曜日

大阪3 真田山と陸軍墓地

大阪というのは真田幸村が好きで上田市と姉妹都市だったりする。
(真田は松代で明治を迎え、上田は徳川譜代の大名だったが、信之の真田ではなく、昌幸、幸村が好きなのだろう)

真田山に行ってみる。
2019-03-14
学会に行く朝、30分早く出れば寄れる。

地名、さらにはマンションの名前にもなっているのに、顕彰碑が見つからない。

実は1991年暮れか92年初めにも、早朝来たけどやはり出勤前の数分間では見つからなかった。

これらの景色は覚えている。

学会会場に向かうため、玉造駅の近くで地図をみたら、宰相山公園というものがある。気になって調べたら加賀宰相前田利常が冬の陣で真田を攻めたときの陣(あるいは越前宰相・松平忠直の陣?)という。

3/15夜、再び来てみると、ありました、真田の幟、幸村の像が。
さらに山に上がってびっくり、石柱の墓標が林立。
陸軍墓地だった。
しかし真っ暗で写真を撮れず。

大阪は陸軍士官学校の前身、兵学寮も東京移転前まで置かれていたし、佐賀、鹿児島の乱を予測し、大阪城に置かれた鎮台は重要だった。
その後、鎮台は第四師団司令部となり、第8連隊にくわえ、東洋一と言われた大阪砲兵工廠もあり、陸軍との関係も深い。
真田山公園も騎兵第4連隊のあとで、陸軍墓地があっても不思議はない。

3月16日早朝再訪。
周りを歩いてみると
高津(こうづ)高校の校地に高津宮址碑。
仁徳天皇が都をおいたというが、なぜここにあるか知らない。


創価学会関西文化会館。
外から見ると学校そっくりの建物。
池田大作の著作などあるストアも併設。

真田山公園西側にくると騎兵第4連隊の記念碑。
帝国陸軍の騎兵は、明治22年、大阪に2個中隊からなる大隊として初めて編成された。全国では6大隊あり、その後、拡充され、日露戦争は21個の連隊があった。
騎兵連隊は5個中隊(1中隊は159人が標準)からなる。

古い塀の向こうは公園管理事務所だった。

いよいよ陸軍墓地へ。
終戦までは旧陸軍が管理していたが、今は真田山陸軍墓地維持会が維持・管理している。
1871年(明治4)日本で最初の陸軍墓地という。
雨のせいもあるか、だれもいない。

整然と並ぶさまは全く兵士のようである。
墓碑 5,100基以上あるらしい。

縮小されてしまった文京区護国寺の陸軍墓地とは全然違う。

赤いコーンは特に傷みが激しい墓碑

維持会によれば、全墓碑の70%に傷みが見られ、1,000基を超える墓碑が風化、崩壊の可能性があるという。


納骨堂は8,200余の遺骨が納めらている。

共同慰霊碑もある。
説明・案内板かと思って近づいたら「この場所でバーベキューはしないでください」というものだった。この広場は納骨堂の前で、慰霊祭など行うのだろう。

大きな墓石は部隊の碑かと思ったら個人だった。
墓地開設時の古いものかと思うとそうでもない。

アメリカのアーリントン墓地のように国立にしてもいいと思うが、靖国神社みたいになっても面倒だからな・・・。

東に隣接する三光神社へ行くと、途端に時代は変わり幸村像。
大阪城への抜け穴というが、本当だろうか。
真田丸を攻めた前田軍の塹壕の痕跡ではないかと言われるが、大阪の人は幸村の穴のほうを信じたいだろう。

真田丸とは本来ドラマのタイトルではなく、冬の陣のとき、幸村が城外に築いた砦のことだが、これらの幟、大河ドラマの前にはあったのだろうか?

創建以来、武内宿禰の末裔の武川氏が神職として奉職し、現在は86代目と伝える。
彼が幸村を好きなのだろう。

帰宅して調べたら、大河ドラマで盛り上がった大阪では、真田幸村博を開催した天王寺区役所が、真田丸の場所を本格調査した。
その結果、陸軍墓地の西、心眼寺などのさらに西、大阪明星学園の敷地あたりとし、
2016年2月、明星学園のテニスコートの外、心眼寺坂に顕彰碑を建てたようだ。

(wikiから)

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