根岸線山手駅近くで昼食を取った後、谷道である商店街を北に歩くと左遠方に教会の尖塔が見えた。山手教会だろうか。
やがて、これまた谷を走る本牧通りにぶつかる。
そこを越えて坂を上がると山手公園。
2019-06-09
1870年、居留外国人によって作られた日本初の洋式公園。1876年、初めてテニスがプレーされ、テニス発祥の地という。
会員制クラブYITCがまだ続いている。
140年変わらぬクレーコートが6面。
誰でも会員になれるというが、一般のテニスクラブ会員とは異なり、公益事業への積極的な参加や外国人とのコミュニケーションが求められる。
入会申請すると、公益活動3回、理事とのテニスプレー4回の計7回をビジターとして体験した後、理事会が入会審査承認を行う。当然理事たちと親しくなければテニスなどできない。
入会金75万円、月会費13,000円以上にハードルは高い。
いっぽう、市営のコートも6面ある。
それがこちら。
山手68番地(フェリス前の代官坂上)にあったものを1986年に移築した。
旧山手68番館がレストハウスという贅沢さ。
6面あって、1面2時間2200円。
今月はいっぱいだったが、来月はまだ空いていた。
それにしても、根岸森林公園同様、横浜市民でも青葉区都筑区など内陸の人々は来ないから、古き良き港町横浜らしさが失われない。
山手公園を出て、谷を左に見るようにフェリス女学院大学を回り込む。
フェリス女学院大学校門
1981年12月20日、井上勲氏、池田嬢、渡辺嬢と4人、ここで写真を撮っている。山手本通りに出る角がカトリック山手教会
礼拝堂があいていた。
覗くと、集まっている人は全員普段着の外国人だった。
尾根道である山手本通りを道なりに歩くとベーリック・ホール、エリスマン邸とかつての邸宅が並んで元町公園につながっている。
ただの原っぱに遊具を置いた公園は子どもにはいいだろうが、大人にはこういう文化、美しさを感じさせるものがあったほうがいい。横浜市も維持は大変だろうが、市の品格を高めるものとして保存してほしい。
エリスマン邸の向かいは横浜雙葉
四谷の雙葉との関係は、ともに1872年、マザー・マチルド他4名の「幼きイエス会」修道女が山手58番地に外国人子女教育および貧困孤児養育事業を開始(仁慈堂)したのを起源とする。
四谷雙葉は1875年設立の築地語学校を1909年に雙葉高等女学校に改名。
横浜雙葉のほうは1900年横浜紅蘭女学校をへて横浜雙葉に改名したのは1958と遅い。
なお、雅子皇后は、姉妹校の田園調布雙葉である(小、中、高)。
山手十番館
10番地にあった洋館ではなく、明治100年を記念して1967年に建てられたものとは知らなかった。
外人墓地は中に入れないようになっていた。
まあこれだけ観光客が多いと仕方がないだろう。
そのころと比べて木が繁ったような気がする。
墓地に入れない代わりに資料館ができていた。
墓地資料館に1889年の地図があった。
これを見ると横浜の関内は、中村川、大岡川の関所によって攘夷テロリストから守られていただけでなく、いまのJR根岸線のところにも川があり、堀を巡らし出島のようだったことが分かる。
氷川丸の煙突とインターコンチネンタルホテルの一部が木々の上にかすかに見えた。
山手本通りをフェリス中学高校の手前まで戻る。
雨が降りそうな天気。ちょうど雨宿りできる生垣。
汐汲坂上の角で、個人の邸宅。表札は日本人だった。
汐汲坂をおりると中島敦の文学碑。
横浜学園で8年間教えたとある。
奥の方に小さく見えた。
今の私学なら宣伝も兼ねて道路際に建てるだろうが、昔はそういう発想がなかった。
横浜山手の散策を終え、1981年、1990年と同じように、元町に下りた。
この商店街は昔通りオシャレでにぎやか。シャッター通りでなくて安心した。
この日は根岸からよく歩いた。
石川町駅で電車に乗ったとたん、午前中のダンス28組中28位という屈辱を思いだす。
次の関内駅(横浜文化体育館)で勝ち残っていたライバルが乗ってきたら嫌だなと思ったが、それはなかった。
横浜駅で速い電車に乗り換える気力はなく、京浜東北線各駅停車に座ったまま帰宅した。
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