6月8日土曜、浜松町に来た。
来月息子の結婚式があり、そのとき着るモーニングの衣装合わせ。
終わってからまだ明るかったので増上寺にきてみた。
最初に浜松町周辺に来たのは1978年。
共立薬科大学に学園祭パンフを売りに、その後、1985、中華人民共和国観光案内所にも来たが、そのとき増上寺に寄ったかどうか不明。
1996米国客人を増上寺に連れてきた。
2007?2008?東京プリンスホテルでダンスパーティ(秋山幸二とすれちがう)
このときは境内を歩いている。
大門
ここから先、山門まではだいぶある。
昔はびっしり塔頭が並んだ地域も今はオフィス街になっている。
三解脱門
三縁山広度院増上寺の正門である。
寺は山号で呼ぶから山門といい、中央と左右があるから三門とも書く。
戦災を免れて、増上寺では一番の建造物か。
東京タワーへ行く道にそって千体子育地蔵菩薩。
赤い帽子、よだれかけ、風車。
昔はこのように段ではなく、地面にじかに立っていたような気がするが、気のせいか。
初めて見たときくるくる回る無数の風車が不気味であったが、今は外国人観光客をはじめ、人が多くなったから怖さはない。
花差しと石像の後ろに奉納者の名前が書いてある。
1000体かどうかは数えなかった。
本堂の右後ろにある徳川家霊廟
拝観できるようだが入場料500円なら興味ある人しか入らないだろう。
鋳抜門
かつて家宣の墓前にあった鋳抜き(鋳造)の中門を移築
明治40年goo地図 塔や紅葉館もみえる。
上図のように、かつては将軍家の菩提寺らしく、立派な霊屋は北の東京プリンスホテルから南はプリンスパークタワーまでいくつもあった。
しかし空襲で焼失したこともあり、現在地の狭い一か所にまとめて改葬した。
千体子育て地蔵の裏から覗く
増上寺は、本来徳川とは関係なく、1393年浄土宗の寺として建てられた。
(開基は浄土宗第八祖、酉誉聖聡)
場所は今の千代田区平河町から麹町あたりらしい。開山から戦国時代にかけて、浄土宗の東国の要として発展する。
1590年家康が関東に入ってまもなく、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれた。
もともと三河時代の松平家の菩提寺が増上寺開基の酉誉聖聡の弟子であったこと、また家康が当時の住職源誉存応上人に深く帰依したため、と言われる。
1598年、現在の芝の地に移転。
幕府成立後は家康の手厚い保護もあり、大発展した。
空襲焼失、再建された本殿の裏
15人のうちだれがここに葬られたか、ここで整理しておく。
氏名 | 院号 | 享年 | 没年 | 増上寺 | 寛永寺 | その他 | ||
1 | 家康 | 安国院 | 75 | 1616 | 日光東照宮 | |||
2 | 秀忠 | 台徳院 | 54 | 1632 | 〇 | |||
3 | 家光 | 大猷院 | 48 | 1651 | 日光輪王寺 | |||
4 | 家綱 | 厳有院 | 40 | 1680 | 〇 | |||
5 | 綱吉 | 常憲院 | 64 | 1709 | 〇 | |||
6 | 家宣 | 文昭院 | 51 | 1712 | 〇 | |||
7 | 家継 | 有章院 | 8 | 1716 | 〇 | |||
8 | 吉宗 | 有徳院 | 68 | 1751 | 〇 | |||
9 | 家重 | 惇信院 | 51 | 1761 | 〇 | |||
10 | 家治 | 浚明院 | 50 | 1786 | 〇 | |||
11 | 家斉 | 文恭院 | 69 | 1841 | 〇 | |||
12 | 家慶 | 慎徳院 | 61 | 1853 | 〇 | |||
13 | 家定 | 温恭院 | 35 | 1858 | 〇 | |||
14 | 家茂 | 昭徳院 | 21 | 1866 | 〇 | |||
15 | 慶喜 | (神道) | 77 | 1913 | 谷中霊園 |
天海は川越喜多院の僧であったが家康に重用され、
1613、日光山輪王寺貫主を拝命
1616、危篤の家康から神号や葬儀に関する遺言を託された。
その遺言というのは、増上寺で法会のあと、駿河久能山に葬り、1年後に日光に改葬せよというもの。これは増上寺と家康を離そうとする天海の謀略のようにも見える。
天海は江戸に天台宗の大寺院を作りたいと考えた。
秀忠は忍ケ岡に屋敷のあった藤堂ら3大名を移転させ、寛永寺を作る。
秀忠は1632年に没するが、当然、徳川菩提寺の増上寺に葬られた。
(既に家康時代から子女は葬られていただろう)
つぎの家光だが、尊敬する神君家康と同じ日光へ。
問題は家綱、綱吉。
おそらく創建から50年もたち、大発展した寛永寺が働きかけたのだろう。
将軍家の菩提寺となった。
当然、増上寺はおもしろくなく、協議したのか、以後両方で葬られることとなった。
どちらになるか当時の政治状況で決められただろうから、没年も書いておいたが、調査は別の機会とする。
本堂裏に一般墓地がある。
AKさんの家のお墓もここだろうか。
月極め駐車場も経営している
明徳幼稚園はどういう人の子が入るのだろう?
このあと西をぐるっと歩いて東京タワーとの間の堀のような低地の道を南下、幼稚園の南の坂を上がり、本殿の南に戻ってくる。
柵の向こうに芝生広場が見えた。
ザ・プリンスパークタワー東京ホテルの敷地だろうか?
いつだったか来たとき、本殿南の増上寺会館あたりは工事していたような気もするのだが、記憶違いだろうか。
ここで増上寺本殿の写真を撮っていないことに気が付いた。
いかにも鉄筋コンクリートらしい造り
普段、ほとんど鏡を見ないが、最近自撮りを覚えて、客観的にみるようになった。
すっかり老け顔になっていることに驚く。
黒門から車道にでる。
芝公園の範囲
ほぼ、かつての(塔頭含まない)増上寺本体の境内を示している。
港区立芝公園
公園奥の林の中に入って行ったら、きれいな芝生広場に出た。
プリンスパークタワーの敷地である。
ホテルの敷地なのに自由に入れるようだ。
よく手入れされた散策路を通って、ホテルの敷地外に出た。
建物の中を除き自由に入ってもいい、という旨の看板があった。
この石垣はいつのものだろう?
ビワの木。下の方の実はとられている。
前方後円墳のところにお稲荷さんがある。
空襲で焼失した五重塔はこの辺りにあったのだろうか。
小学館江戸東京情報地図
これを見れば、塔は古墳の上にあったように見える。
梅園は明治の地図にもある。
このあたりは港区立でなく都立芝公園となっている。
東照宮ということは家康を祀っている。
今回知ったのだが、東照宮は江戸時代から松平徳川一門だけでなく、諸大名もこぞって建てた。全国で700以上も建てられ、約130社が現存するという。
幹周 6. 5m、樹高 21. 5m、推定樹齢350年。
家光時代に植えられたイチョウという。
あす何かイベントでもあるのだろうか、テントをあちこち造っていた。
作業員が金属パイプを運んでいるなか、小さな子供たちが自転車で走り回っている。
ぶつかったら危ないが、立ち入り禁止のフェンスで排除しないのが、好ましかった。
浜松町駅から増上寺境内、芝公園まで外国人観光客だらけであったが、パイプを運ぶ作業員まで外国人であることには驚いた。
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