家を早めに出て地下鉄白金台。
東大医科研を突っ切ると近いので立ち寄ることにした。
と、地上に出ると目黒通り、目の前にあった。
来るのは初めて。
右は医科研でなく港区の郷土歴史館「ゆかしの杜」
1938年に完成した旧国立公衆衛生院(2002年改組廃止)。
2009年に港区が取得、耐震、バリアフリー工事などして2018年11月にオープンした。
内田ゴシックの代表例で同時期、隣に建てられた医科研本館と調和させている。
医科研正門
中に病院があり、正門左には資料館もあるので、思ったより開放的。
近代医科学記念館
月-土、10-17、無料
「近代医科学」とは、漠然としすぎて違和感がある。
東大医科研資料館とすると内務省伝染病研究所との相性が良くないからだろうか。
1892(明治25)5月、北里、コッホ研から帰国。
脚気菌論争もあって東大とうまくいかず。
福澤の援助で
1892.10月、大日本私立衛生会附属伝染病研究所を設立(芝区芝公園)
1893 結核専門病院、土筆が岡養生園 開設
1899 国に寄付し、内務省管轄となる。
1906 白金台の現在地に移転
ところが
1914 北里に何の相談もなく、内務省から文部省に移管される。
これでは東大付属となり、しっくりいってなかった緒方正規、青山胤通らの下になってしまう・・・。
この処置に怒り、北里はじめ、部下の北島多一、志賀潔、秦佐八郎ら総辞職。
蜀江坂を下りた土筆が岡養生園の空き地に私立北里研究所を設立、全員移る。
1916年 東大付属となる。
1967年 伝染病以外の疾患が増えてきて東大医科学研究所と改称。
「近代医科学」記念館から出て本館に向かう。
一度確認したかったのは地形。
北里の車が毎朝8時、正門を入って両側が窪地の、馬の背のようなところを通って本館前に向かうと、本館には赤い気球が上り、所長の到着を知らせ、玄関に着くと事務長らが出迎えたというような文章を以前読んだから。
なるほど、西の宅地は崖下、東の敷地も低かった。
病院は本館裏にある。
西の住宅地側に売店の建物、なかに食堂があった。
白金定食 530円
1937(昭和12)竣工、
関東大震災後の東大の建物は、ほとんど内田祥三が設計した。
本郷キャンパスがどんどん建て替えられている中、ここは貴重かもしれない。
中は壁を貼ったのだろうか。真っ白で安っぽい。
階段などはまだ雰囲気がある。
しかし傷みも目立つ。
上手いのかまずいのかわからない看板。
本館は翼を後ろに広げたようになっていて、ここ東の翼から入ると、うらの病院へ通り抜けられる。
2階に青山胤通の銅像があった。
1917(大正6年)12月食道癌で死去。
伝研を1916年東大付属にして所長となるも、短かった。(北里は1931年6月没)
当然だが、北里柴三郎の銅像はない。
中はひと気がない。
戦前の建物を目一杯、内装をリフォームし、エレベーターまでつけたのに。
裏に回ってみる。
内田ゴシックに特徴的な犬小屋ポーチ
戦前の本館の裏に一転、現代的な総合研究棟があった。
同級生の井上純一郎氏がいる。
廊下だけでも歩いて、偶然会えればいいなと思ったが、セキュリティーが厳重。
一階の入り口近くみたいだが、内線電話をして開けてもらわないと入れない。
急だから迷惑かと思ったが、この年になるともう二度と会えないかもしれない。受話器をとって建物内案内表示にある5ケタの番号を押してみた。
「あの、井上先生のお部屋でしょうか。あの、お約束していないのですが、あの、同級生だった小林と申します」としどろもどろに言ったら、秘書の方が「はい、はい、今開けまーす」と当人の都合も聞かず、すぐ走ってきて開けてくださった。
同窓会で皆と一緒にことばを交わしても、二人だけで会うことは初めてで新鮮だった。
40年前、ロックが好きな長髪、野球大会でサードを守る彼の華麗な守備を思いだす。
裏門をでると聖心の塀。
2010年閉鎖白金寮は右をいくと跡地に出るらしいが、左へ曲がり北里大に向かう。
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