2019年9月7日土曜日

品川神社から御殿山へ

9月1日、いつも使う日暮里のダンス練習場が休みなので、大崎まで来て品川保健センターのパーティ会場で軽く体を動かした。

練習が終わって御殿山経由で品川駅まで歩くことにした。
品川神社
頼朝が1187年、海上交通安全、祈願成就の守護神として、安房・洲崎神社から天比理乃咩命を勧請して品川大明神としたのが始まりという。
来るのは初めて。
拡大すると鳥居に竜が巻き付いている。

第一京浜(国道15号)、京浜急行の向こうに旧東海道が走っている。
その先は海。
この神社の特徴は、独立峰であり、相当見晴らしがよかったこと。
神社以前に物見の丘であっただろう。

家康が関が原出陣の折、立ち寄って戦勝祈願したことなど、交通の要所にあったから、社格以上に目立つ存在であっただろう。
境内に登ってから思いだした。
品川神社は富士塚が有名。

わざわざ富士山から溶岩を運んでくる意味は何か?
できるだけ本物に近づけようとしたのだろうか。しかし、でこぼこして外見はまったく似つかない。運んで来いと言われ嫌々ながら持ってきた人もいるのではないか?

境内でバーベキューをしていた。
これだけ多人数だと堂々としている。
神主さん承認?

品川神社って、字面が現代的というか都会的。

頂上(神社境内)から鳥居が中腹に下がっていて、その先に稲荷。
穴稲荷という形式があるのだろうか。

御殿山に行くため西側に降りたい。
おりる階段を探して本殿の裏に回ったら、階段はなかったが墓があった。
板垣退助(~1919)の墓。
なぜ寺でなく神社にあるのか?

そもそも品川神社の西南一帯は東海寺だった。
寛永15年(1638)家光が沢庵宗彭を招聘して開山。境内地4万7000坪。
しかし明治6年 寺領が新政府に接収され衰退。道路や鉄道、宅地などになった。
板垣の墓は塔頭高源院の墓地であるが、いまは区立品川学園などができて、品川神社からしか入れない。
なお、目黒川と山手通りに挟まれ現存する東海寺は旧塔頭の玄性院の場所。

品川神社をふたたび第一京浜に下りて、すぐ北側を西に歩くと山にぶつかる。
そこを切り開いて線路が通っている。
品川駅方面からくる線路は、京浜東北、東海道線は直進、山の手、新幹線は左(西)に曲がっていく。
上の写真の跨線橋(御殿山通り)をわたると御殿山。
すぐ右に立派な公園があった。
木々の向こうに高層ビルがある。
御殿山ヒルズの一部なのか、区の公園なのかよく知らない。
練習後でくたくた。
降りたら上がってくる自信がなかったこともあり、上から眺めるだけ。

御殿山ヒルズ一帯は、実業家・原六郎(1842 - 1933)と娘婿・原邦造(1883-1958)の屋敷だった。原邦造は東京ガス会長、日本航空会長、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)総裁などを歴任した。
森ビルが1990年原家の敷地に御殿山ヒルズを建設。2006年御殿山ガーデン、2013年に御殿山トラストシティーと名前が変わった。マリオットホテルも中にある。


滝をあとに、通りをすすみ、城南五山の一つ、高級住宅街の御殿山に入る。
まず原美術館
1938年建築の原邦造の邸宅であった。
戦前の原家本邸は、森トラストシティーの中心あたりにあった。


御殿山の御殿は因州池田の御殿ではなく、徳川将軍家の鷹狩に使われた品川御殿から。
むしろ線路の東の北品川3丁目、品川女子学院や郵政宿舎のあたり。
しかし、八ツ山とともに幕末のお台場つくりや埋め立てで崩され、さらには鉄道ができ、今の地形からは山の範囲が分からない。

なお先の写真の御殿山ヒルズの滝は、埋め立て用の土をとるため御殿山を削ってできた崖にある。

さて、品川御殿がなくなり、山も削られた明治以降、御殿山というのは、ふつうヒルズや原美術館のある北品川4丁目からその西の5丁目にかけての住宅地をいう。
2019-09-01

この御殿山には1980年の正月ころ、2か月ほど家庭教師のアルバイトに来た。
白百合学園の高校3年生。名前も住所も何のメモも残っていない。
たしか神田の田中貴金属の重役の家。

週1回、英語ということで何をしたらいいか生徒も私も分からず、とりあえず本屋で大学入試の問題集を買ってきて与えた。
夕方、実験室を出て御徒町のロッテリアで腹を軽く満たしてから電車で品川、そこから歩いて12分くらい。
国土地理院地図1979-83
山手線、U字の底
左が大崎駅、右下に品川神社、中央上部が御殿山の住宅街

大体の場所が分かっていたから現地に行けば思いだすと思ったら大間違い。
それらしき家どころか、記憶にある家並みすらなかった。

記憶では三菱開東閣の南縁に沿って坂を上がったら2つ目くらいの道を左(西)に入り、右折(北へ)する。(北品川5丁目)
ところが記憶と実際は90度ずれていて、入る道は 南にむかい、右折は西だった。

記憶では道の右側(東側)にその家があり、敷地西側に玄関、南に庭があった。
ところが、実際は道の右側の家々は、道の北側だから玄関も庭も道に面している。

記憶の家、家並みなどどこにもないのだ。

記憶にある家の外観は品川駅から到着した時の姿でなく、行き過ぎて反対の方から見た図だろうか?
それなら南北の通り(北品川4丁目)の家を南側から見たことになる。
40年で家々が小さくなってしまったのは仕方がない。

その家は、玄関の三和土を上がると屏風か衝立をおくような取次の間があった。
そこで畳に座る母親に迎えられ、取次の間を過ぎると廊下があった。
手前右手が洋室、そこを過ぎると廊下は縁側になっており、左側に和室の障子が続いていた。
取次の間の裏に当たる洋室は本来応接室だったのだろうが、彼女の部屋になっていて、そこで教えた。
私の中で品の良い和風の家というと、このときの記憶が浮かんできていたのだが、現実世界にはもはや存在しないようである。

御殿山にはもう一軒記憶のある家があった。
門柱と洋館。
その数年後、テレビドラマの背景に出てきたほど。
2019年、探したがやはりなかった。
このような門柱があったが、家は全然違う。
本来の表札がはがされ紫雲荘という板がかけられていた。
40年で門柱以外建て替えられたのだろうか。

練習のあと歩き回ってすっかり疲れ、品川駅に向かった。
1980年、教えた高校生は品川駅でなく大崎におりて新宿周りで九段の白百合に通っていた。可愛らしい子だったが、どうなったか、全く知らない。

新八ツ山橋、八ツ山橋を右に見ながら坂を下りていく。
これらの橋はそれぞれ第一京浜、八ツ山通り(東海道)が線路を乗り越えるのにかけた橋。
八ツ山というのは、すなわち、これらの橋の山側、つまり三菱開東閣のある高台である。
御殿山ヒルズも出来て、御殿山もだいぶ変わった。
しかし三菱開東閣だけは昔のまま。
ここは、どういう人が入れるのだろう?
三菱グループの社員も入れないのだろうか。
品川駅そばまで来て道路を渡り振り返る。

そうだ、つばめぐりるは1980年もこの辺りにあった。
うしろは品川プリンスホテルらしい。1976年ごろオールナイトのスケートセンターにきたことがあるが、こんなビルはなかったと思う。1986年、94年、2002年と順次高層ビルが建ったようで、景観は大きく変わった。



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