台風一過の9月13日、荒田先生、清水先生が過ごされ、ひょっとしたら辻申三郎もいた正行寺・清風荘をみにきた。
帰路、本郷通りを渡り、家まで近道しようと向丘の住宅街に入ると、昔住んでいた友人を思い出した。
向丘 2-18-11あたり。
この近くのアパートに理学部化学科に進学した末村耕二がいた。
部屋は二階で、壁にゴルフウェアの竹下景子が貼ってあった。彼女は我々の1歳上。
世の重役たちの、息子の嫁にしたい女性ナンバーワンと言われた頃である。
そこから真浄寺の長い塀にそって北に行くと、広い道に出る。
この景色は40年前と全く変わらない。
2019-10-13 左は顕本寺
この道は、南東の谷中ではなく北の本駒込に向かっているから、よく歩いたのは1977年か。
2019-10-13
真浄寺の隣は海蔵寺。
何回か前を通っているが、入るのは初めて。
身禄行者の墓があるという。
これは通称で本名は伊藤伊兵衛。身禄は弥勒菩薩から。
富士講の指導者で、1733年、63歳の時、駒込の自宅を出発して富士山で断食を行い35日後にそのまま入滅。 骨の一部が菩提寺の海蔵寺に葬られた。
行名(富士講修行者としての名前)として食行身禄とも呼ばれる。
本堂。
身禄の死後、彼の娘や門人によって次々と富士講は増えた。現世に不満を抱く人々から熱狂的に迎え入れられ、江戸八百八講と呼ばれるまでになった。あちこちに富士塚と呼ばれる小型の富士山が築かれたという。
なんと、では都内各地の富士塚ファンにとって海蔵寺は聖地ではないか。
身禄の墓のそばに鳥居。寺の中に鳥居とは珍しい。
鳥居の奥は富士塚であった。
富士講の塚というより、信者たちが教祖のために墓石のつもりで積んだのであろう。
最も重要な富士塚でありながら、しかし都内で最も知られていない富士塚に違いない。
私もこの日初めて知った。
海蔵寺を出てすぐ、大観音通りに出る直前、角から右に二軒目に高倉仁史のいたアパートがあった。長野高校剣道班からの付き合い。
40年前は家が小さかったのか、もっと家と家の間が空いていた。
南の道路から敷地を奥まで入り、西北の隅のドアを開けると、北向きに板の間の台所と南に6畳の部屋。
「大家さんもいい人で、家賃を持っていくとケーキがもらえます」
という彼独特の字のハガキがとってある。
同じ剣道班だった由井克之が松本から上京した時は3人で白山上で飲み、ここで別れた。
それから由井と私は谷中のアパートに向かった。由井は翌日東日本医学部剣道大会ということで竹刀と防具を持っていたのではなかったか?
あの夜、私はだいぶ酔っていた。
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