2019年11月30日土曜日

松本3・スズキメソードと3ガクト

先のブログで開智小学校に触れた。
小学校の沿革を見れば、毎年のように金管バンドなる演奏クラブが長野県代表として各種コンクールに出場、活躍している。

開智小学校卒業生の森恵美子さんの話では、夕方に近所を歩けばどこの家からも子どもの弾くバイオリンが聞こえたという。何十年も前の話である。
松本は音楽が盛んだ。

1992年以来毎年松本で開かれる音楽祭、セイジ・オザワ 松本フェスティバル(2015年までサイトウ・キネン・フェスティバル松本)は有名である。

バイオリン教育のスズキ・メソードの本拠地も松本。
松本市民芸術館の隣に、幼児教育の「才能教育研究会」と合わせて、国際スズキメソード音楽院がある。

2012年3月、松本文化会館で開かれた生理学会の帰りに創立者、鈴木慎一の旧宅に寄った。

2012-03-29 15:03
いまは記念館になっている。
「どの子も育つ。育て方ひとつ」
鈴木は名古屋出身、父親がバイオリン製作会社を創立。
バイオリン奏者となりベルリン留学、アインシュタインなどとも親交。
戦時中は鈴木バイオリンの木曽福島工場長。
戦後松本の文化人らが音楽学校の設立を計画、1946年松本音楽院開設。
鈴木は院長に迎えられ松本に移住、
同年、全国幼児教育同志会を結成、本格的に才能教育運動を開始した。

「スズキ・メソードは、コダイ、ウォルフ、リトミックと並んで世界四大音楽メソッドの一つとも言われ、いまや世界46カ国で40万人の生徒が学んでいる。もっとも浸透しているのはアメリカで、30万人が学ぶ。発祥地の日本よりも世界で知られた音楽教育法といえるかもしれない。
 日本においては現在2万人弱の生徒が学んでおり、卒業生には桐朋学園学長を務めた江藤俊哉、里見弴の小説『荊棘の冠』のモデルになった諏訪根自子といったヴァイオリニストに始まり、パガニーニ国際コンクールやジュリアードコンチェルトコンクール、ロン=ティボー国際コンクールで上位賞を獲得する演奏家が数多いる。」
(原子物理学者・早野龍吾氏インタビュー)
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/7784

自宅応接間
スズキメソードの母体、才能教育研究会の第5代会長に就任した早野氏もここでレッスンを受けた。

見学者は誰もおらず(普段もあまりいないのではなかろうか)、
係の人にじっくり親切に教えていただいた記憶があるが、すべて忘れてしまった。

翌日、学会二日目の懇親会に続く「信州の自然と文化と伝統を楽しむ夕べ」のステージでいくつもの子供たちのグループが登場、まだ下手な幼児までバイオリンなどを演奏した。
皆スズキメソードなのだろうか。

松本は3つのガクトを目指すと自称している。
楽都、岳都、学都である。
1970年で16万人、大合併した今も24万人しかいない地方都市にしては大風呂敷である。

(楽)の音楽はいま述べた通り。

(岳)については、もともと西の北アルプス、東の美ヶ原への玄関口であった。
近年、合併によって上高地、穂高、槍ヶ岳まで市域に含まれた。
もっとも市民にとってはこれらの山々より、手前にそびえる常念岳のほうが馴染んでいるだろうが。

(学)については、
松本は明治以来、教育県長野の中心になってきた。
47都道府県で国立大学が県庁所在地にないのは弘前と滋賀(彦根)と松本だけ。
今も信州大学、松本大学、短大2、専門学校13、公立高校7、私立高校6。
人口24万人にしては多い。
ここへきて開智学校が国宝となり、松本高校記念館を母体にした旧制高校記念館を整備している。

・・・・・

2012年3月31日、学会が終わって信州大学医学部・芙岳寮、さらには旧制松本高校跡地に寄り(別ブログ)、駅に向かった。
途中、わき道にそれると湧き水のある小さな公園があった。
源地水源池。

さらに暗渠のような細い道をいくと、まさに市中に
源智の井戸
江戸時代から飲用に使われており、いまも230リットル湧いているという。
市内には多くの湧水、井戸がある。このような市街地に今も残って使われているのは珍しいのではなかろうか。
3つのガクトより、こちらの方がすごいと思った。
松本の底力を感じた。

松本は地形的にも、文化的にも長野県の中心であろう。
松本に県庁をおいた筑摩県が庁舎火事をきっかけに1876年、長野県に統合された。県庁が北のはじ、長野にあるのは中信、南信のものにはまことに不便である。
さらに真田10万石の松代ならともかく、善光寺しかない商人の町に置かれるのは、誇り高き松本の士族たちは納得できなかったであろう。

だから長野県においては松本を中心として、分県運動、県庁移設運動が、明治、大正、昭和とずっと続いてきた。

分県、移庁が無理でも、各県に一つしかない機関は長野と誘致合戦を争い、多くをものにした。
全国10番目の日銀支店や護国神社は長野でなく松本であるし、陸軍第50連隊も松本(今は信州大学新キャンパス、松本美須々が丘高校、旭町中学、松本文化会館)。尋常中学、旧制高校、近いところでは1978(昭和53)年の国体主会場も長野でなく松本。
国体は戦後始まり、人口200万全国16番目の長野は昭和30年代に開かれても良かったが、主会場で長野と松本が引っ張り合い、この時まで開催できなかったという。

2012-03-31 17:22
この日、埼玉には帰らず、北信濃・中野の実家に帰ることにした。
篠ノ井線の各駅停車で長野県を二分する中央の山塊をぬけた。
姥捨駅までくると、善光寺平を中心とする東北信が眼下に広がる。
鉄道のなかった昔は、中南信のものにとって県庁に行くのはさぞかし不便であっただろう。

ホームのベンチは線路でなく景色の方を向いている。

私は北の長野市文化圏であるが、松本諏訪にずっと憧れている。
県歌「信濃の国」を残すためにも、県庁は移しても良いが、分県だけはしないでほしい。
(今の松本の発展具合をみると、コンクリートの臭いのする県庁、行政機関などは無いほうが良かったのではなかろうか)

松本、諏訪出身の文化人は非常に多い。善光寺しかない長野は全くかなわない。
風土というものだろう。
文化人は多すぎて列挙しきれないが、花いっぱい運動、宴会の料理廃棄を防ぐ30・10運動なども松本発祥であることを書いておく。


別ブログ
20191129 松本2・信大芙岳寮、幻の九高と旧制高校記念館
20191125 松本1・お城と開智学校


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2019年11月29日金曜日

松本2・信大芙岳寮、幻の九高と旧制高校記念館

(松本での続き)

生理学会、3日目の最終日は雨だった。
本町通りから女鳥羽川を渡ると大手門の跡。
その手前、いかにも観光用に整備された縄手通りを東へ歩く。
2012-03-31 9:04 四柱(よはしら)神社
南総堀を埋め立てた地に、明治天皇行幸に合わせ建てられた。
すなわち縄手通りは総堀と女鳥羽川の間の堤である。

1977年、芙岳寮に泊まった。
翌日、由井克之は自転車を押して、二人はこの川に沿って駅まで歩いてきた。

川をみて無性に行ってみたくなった。
午後、学会が終わって急ぐ。
2012-03-31 14:37 信州大学医学部・芙岳寮
芙岳とは富士のことだが、ここからは見えない。

1977年はこんなに車などなかった。
自転車かバイクが並んでいて、ここで由井とキャッチボールをした。
彼を座らせカーブの練習をした。
夜は外食してきてから由井の部屋で彼の好きなワインを飲んだ。
二人部屋だったが、相方が帰省中でそのベッドを借りた。

35年後の2012年、寮の周りは住宅が立て込み、当時の雰囲気はなくなっていた。

・・・・・

このあと南下し、市の南東部にある旧制松本高校跡地にいった。
今はあがたの森公園になっている。
北に蚕糸記念公園、松本県が丘高校、南に松商学園がある。


2012-03-31 15:03 
道路に面して旧制松本高校本館。

四角形の角を玄関とし、90度の二辺に校舎が伸びる形。
一高などのナンバースクールは中央の玄関の両脇、180度に校舎が広がる形であるのに対し、その後の松本や新潟、浦和高校などは、この変わった形になった。

2012-03-31 15:04 

松本はもともと教育熱心な土地であった。
その象徴が開智学校であり、また旧制松本高校の誘致である。

旧制高校は、1886年の中学校令により設立された第一から第五、それに藩閥による山口、鹿児島の7つの国立高等中学校のうち、鹿児島を除く6校を1894年に高等学校令によって改組したことに始まる。
すなわち第一から第五と山口高等学校である。(山口は1904年、高等商業学校に変わった)
記念館にあった模型

旧制高校はそれぞれの地方の人材を帝国大学へ送り込むための大学予科的な存在だった。
1897年になって京都にも帝国大学ができることになり、高等学校の増設も計画された。文部省の計画では2校。うち一つは広島との誘致合戦を制した岡山に六高が決まる。

そこで長野県は七高の誘致を目指し、県内出身者で文部省に顔のきく伊沢修二(高遠、音楽取調掛、雑司が谷霊園)、辻新次(松本、開成所化学教授手伝並から初代文部次官、薬学会会員、本郷弓町に屋敷)、湯本武比古(中野、文部省編輯局、東宮御用掛)らが中心になって運動した。
このとき長野県は松本の他に長野、上田、中野も名乗りを上げ、県内で統一できないまま、1901年、文部大臣樺山資紀の出身地、鹿児島造士館が七高となってしまう。
(わが中野が立候補した理由は、オックスフォード、ケンブリッジのように学校は静閑の地を選ぶべきという、冗談のような理屈である)

なお、鹿児島造士館は最初の7高等中学のひとつであるが、熊本に第五高等中学があったため、生徒が集まらず1896年廃校になっていた。それにしても国立の学校に藩校の名前を冠し、強引に七高をもってくるとは当時の薩長の力はかなりのものだ。

七高の芽が消えた後、松本の運動は実を結ばず、1908年八高は名古屋に。

次の九高は失敗は許されないと、松本出身の2人、辻新次(のちに帝国教育会長)と沢柳政太郎(文部次官から京都帝大総長)に協力を依頼した。ライバルは新潟。
松本市長の小里瀬永はひそかに文部大臣小松原英太郎を訪れ松本設置を依頼した。小松原も賛成し、小里も「九分九厘まで新潟に勝ちを得たるや」(信濃民報)となったが、桂太郎内閣が総辞職。次の西園寺内閣が行財政整理を優先したため、松本九高は流れてしまった。
(中村勝美「信州南北戦争」)。

大正期に入ると好景気を反映し、全国的に高校の誘致熱が高まった。1918年(大正7)新しい大学令と高等学校令が公布され、新たに4校の高校の新設が決まった。

松本は新潟、山口、松山と同時であり、もはや第九高等学校というナンバースクールにはならず、地名を冠することになった。松本と新潟はいずれも自分を第九高等学校と称したらしい。

古いけれどもきれいに掃除された本館の中。
驚くことに、戦前のこの校舎は記念館、資料館ではない。
今も使われている公民館(あがたの森文化会館)なのだ。

15:10 ただし復元された教室もある。
ここで市民講座など開いているのだろうか。

なぜこんなにきれいに残っているかというと、松本高校の後身である信州大学文理学部が1973年(昭和48)、旭町キャンパスに移るまでそっくり使っていたからである。

案内のポスターなどは公民館そのもの

本館の向かいにある松本高校講堂
閉館しており、中には入らず。

信大のおかげで、乱開発を免れ、かつての敷地はそっくり保存された。
今はほとんど何もない公園になっている。
なお、旧制高校の寄宿舎だった思誠寮は、60年経った昭和58(1983)まで存在した。

松本高校本館(現公民館)の並びに、鉄筋コンクリートの旧制高等学校記念館があった。
松本市立の博物館として1993年、開館。
1981年に本館内につくられた「旧制松本高等学校記念館」をうつし、その後全国から資料を収集した。
旧制高校は東京、仙台、京都、金沢、熊本、岡山、鹿児島、名古屋のあと、
1919年の松本、新潟、山口、松山の4校をはじめ、
20年水戸、山形、佐賀、弘前、松江、
21年大阪、浦和、福岡、
22年静岡、高知、
23年姫路、広島、まで毎年作られ、
40年旅順、43年の富山(県立から移管)まで国立が26できた。

修業年限は3年だが、成蹊、成城、武蔵、甲南の私立、東京高校、東京府立高、浪速などの公立は中学教育も合わせた7年制だった。
こうした数ある旧制高校の中で、その記念館がなぜ松本か?

当時の校舎や敷地がそっくり残り、かつ空いていたのが大きいだろう。
駒場の一高などももちろん現存するが、現役の大学として使われ、記念館など作る余分なスペースなどない。記念館を作ろうという意思のある主体もない。
ここは松本高校記念館が既にあったおかげで、資料を集め拡大するだけで良かった。

2012-03-31 15:37
いや、一番の理由は、ここが松本市だからだろう。
明治以降の地域文化を誇りに思い、大事にする。
そういうものにこそ税金を使うという意思がある。


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2019年11月25日月曜日

松本1 お城と開智学校

犬山城を書いたので、同じ国宝の松本城を思いだした。

2012年、日本生理学会で松本に行った。
遅ればせながら携帯電話をもって2か月目。写真を撮った。
それがパソコンに残っていたのでここで整理しておく。

2012-03-29 7:57
いつものように駅前のホテルを早めに出て、散歩してから学会に行く。
松本城の南西に土塁が残っていた。
石垣というのは大変だから要所以外は掘った土を盛った土塁となる。
西の総掘というから三の丸の外である。

8:02 二の丸公園
いったい何を写したかったのだろうか? 山?
学会会場に急いでいた。

学会からの帰り道に再び松本城による。
1968年(小学6年)、1977年(大学3年)以来の3回目。
2012-03-29 15:42
小学校6年の修学旅行は、中野を貸し切りバスで出発、
明科の長野県水産試験場でニジマスの養殖を見学、
森永乳業でガラスの牛乳瓶に入ったジュースを一本ずつ飲み、
(農機具工場も行ったかも)、
松本城に登ったはず。
夕方の薄暗いなか諏訪大社を見て諏訪に宿泊。
その夜、旅行のおこづかいで(当時錦鯉を飼っていたので)金魚の餌とカメを買った。
そのカメは帰路、尖石遺跡を経て白樺湖?を見下ろす草原でおにぎりを食べているさなか、逃げ出してしまい騒ぎになった記憶がある。
しかし松本城の記憶はほとんどない。
子どもは城よりジュースや亀である。
松本城は信濃守護の小笠原氏の深志城が始まりとされる。
一時期、武田氏に追われたものの、徳川の配下となり復帰、松本城と改名。
その後石川数正がはいる。
石川改易のあと小笠原が再び入城するも、大坂の陣以後は松平康長(戸田松平の祖)、堀田、水野、松平(戸田氏)の居城となった。
だから犬山(成瀬)彦根(井伊)松代(真田)のように城主が前面に出てこない。
松本城は明治5年、競売にかけられ木材を目的に落札された。しかし買ったものが解体費用が出せず、放置されていたのを市川量造ら地元の尽力によって買いもどされて難を逃れたという。
かんなが使われていない柱

明治30年代頃より天守が大きく傾いたらしい。そこで旧制松本中学(現深志)校長の小林有也らにより、天主保存会が設立され、大修理が行われた。
残って国宝になったのは松本の民度の高さによることが大きい。

天守最上階から北を見たら開智学校が見えた。
16:02
見たら行ってみたくなった。

途中、開智学校の南に隣接し、今の松本市立開智小学校があった。
16:18
森泰生・恵美子夫妻の母校である。
なお、平成7年から10年にかけて校舎の全面改修が行われたから、森夫妻の出た校舎は現存しないようだ。

開智学校は、第二大学区筑摩県管下第一中学区の第一番小学開智学校として1872(明治5)年5月、学制発布の年に創立された。
当初は廃仏毀釈で廃寺となった旧藩主戸田氏の菩提寺・全久院(松本市大手町)の建物を仮校舎とした。
明治9年、全久院跡地に新校舎が落成。これが現存する旧開智学校校舎である。
16:28 閉館間際にギリギリ入れた。

開智学校は松本いや信州の教育の中心であった。
明治24年設置された開智学校書籍館は松本図書館のはじめという。

その後、明治から大正にかけて開智学校に源池部、田町部、筑摩部、、、、など分校が設立され、それぞれ後に小学校として独立した。

昭和38年、 開智・田町両小学校が統合され、開智小学校となる。
40年、現在地に新校舎落成。
昭和36年、重要文化財に指定された開智小学校校舎は、38年3月まで大手町で約90年間使用された後、翌年にかけて現在地に解体移築復元された。

そして2019年9月、近代の学校建築としては初めて国宝に指定された。

16:48

隣接して移築された明治の洋館、松本市旧司祭館は閉館していた。

帰路、再び松本城を通った。
17:10
夕日を浴びる天守は確かに美しいが、城好きとしては、今一つ物足りない。

松本は長野県の中核都市。城は駅の近く。山や谷はなく完全に平地にあった。
そのため、市街地の開発で堀は南から順次埋められた。その結果、総掘全部、外堀の南、西部分、三の丸は消失した。そして城内二の丸には筑摩県庁や尋常中学などが建てられた。

同じ国宝の彦根、姫路などは平山城だから地形を利用とした縄張りなどがよくわかる。しかし松本城は福井城のように市街地になってしまい、城址としてはあまりおもしろくない。
ところが、平成になって観光ブームが到来、環境破壊の代名詞のような観光開発が皮肉にも復元を始めた。黒門、太鼓門の再建である。ブログ冒頭の土塁整備などもその一環であろう。

しかし、さらに二の丸の外、外堀を西側まで復元しようと、民有地の買収も進めたが、基準値以上の鉛が検出された。堀の復元を諦め広場になるようだが、残念である。鉛の少ない部分だけでも水を張れないものだろうか。

1977年夏、長野高校剣道班が松本での県大会に出場した。
その数日前、先輩として合宿に参加していたので応援に来た。我々の代の主将だった信大医学部の由井克之と合流、大会が終わったあと、松本城見物に来た。
1977-08-14 これが二回目の松本城。
初めて見た小学校のときから9年しか経っていなかったことに驚く。



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2019年11月23日土曜日

犬山城と付家老・成瀬家

10月27日、岐阜から東京に帰る途中、犬山に寄った。
名鉄岐阜駅からのどかな田園を通って33分、460円
木曽川べりの犬山遊園駅下車。

木の板に塗った厚いペンキが劣化、はげてきている駅前観光地図。
製作者が予想もしなかった趣が出ている。

2019-10-27
対岸は岐阜県各務原市。
ちょうど木曽川が濃尾平野に出たところで、ここから上流は川べりに断崖が多い。
2002年まで営業していた日本ライン川下りはこの犬山橋が終点だったようだ。
今は犬山城をみる遊覧船があるらしい。
犬山城がよく見える。
台風19号の影響はなかったのかな?
向うの方に堰がみえる。
静水に近ければ鵜飼いもやりやすい。

堤防沿いの遊歩道を歩きながら近づいていく。
途中で道は左の山の方へ。
堀の役も果たしたか、新郷瀬川。
台地上の犬山市街と木曽川との標高差で急流である。
川岸は、褶曲した堆積岩、チャート。
この岩を嫌というほど見て来た早朝の岐阜城金華山を思いだしながら、城への坂道を登っていく。
まったく同じ大きさの丸石の石垣が延々続く。他にも同様の石垣アリ。
いつ作られたか知らないが、木曽川の川原から集めたものだろう。
領民一人当たり何十個、何百個と命じて徴収したのだろうか。

にぎやかな広場に出て、犬山城に着いたと思ったら神社だった。
尾張五社の針綱神社。
七五三の家族もちらほら。
となりの三光稲荷神社大鳥居には成瀬家と書いてある。

はて、ここまで来たのに城はどこか?
ふと見ると、犬山城への近道という看板があったので稲荷社の境内に入り赤い千本鳥居をくぐると、城らしい坂道にでた。
鳥居奉納者の成瀬家というのは、代々犬山城主。
犬山城は、濃尾地震で一部が崩れ、明治28年愛知県から旧犬山藩主・成瀬正肥へ、修復を条件に無償譲渡される。その後多くの市民からの義援金で工事が行われた。
その後、成瀬家は2004年まで私有していたが、いまは犬山城白帝文庫の所有となり、市が管理している。

国宝として有名だからか、こんな田舎なのに外国人がいっぱい。
イスラムの格好だからインドネシアだろうか。

実は入場券を買うかどうか迷った。
私は現地に来るだけでよい。
周囲の地形、堀や石垣など外の縄張りを見るだけで満足する。
今までいろんな城に上り、建築素人としては似たような内部に飽きたこともある。
観光客で混雑する狭い階段をのぼり、団体客の品のない会話も聞きたくないのだ。
しかし、東京から、二度と来ないだろう犬山まで来て、国宝の中に入らないというのも、のちの会話に困ると思い、550円を払った。
晴れているから景色も見たいしね。
現在修復中で、眺めが半減しているのは残念。
とにかく城の階段は狭い。
最上階へは、普通の住宅仕様の階段。いや狭さはあっているが、勾配はもっと急だ。
ここを荷物を持った観光客がすれ違う。
でも早朝に金華山、馬の背道を上った来たから、ぜんぜん平気。

木曽川は西に流れる

この眺めこそ登った理由。

歩いてきた犬山遊園駅方面

ここは信長、秀吉、家康、誰もが重要視した要衝に立つ。
だから歴代城主は、信長の叔父・織田信康、のちに池田恒興や織田勝長など。
小牧長久手や関が原のときは秀吉軍や西軍の拠点となった。
江戸時代になり御三家が成立すると、それぞれの藩を体制を支えるために幕府は付家老として、信頼できる大名を送り込んだ。三河以来の譜代大名である成瀬正成は尾張藩の職制上最高の立場につき、犬山城を与えられ、以後成瀬家が明治維新まで続く。

しかし、万石以上の城持ち大名でありながら陪臣扱いされた成瀬氏は、維新後紀州や水戸の付家老と運動して、独立藩となり、犬山藩知事に就任した。
成瀬家代々。左のお二人はプレイボーイに見えるが。

11代成瀬正勝は国文学者で東大教授。
12代成瀬正俊(1930 - 2008) 犬山城を財団法人犬山城白帝文庫へと移管。
13代は当主が長男成瀬正浩だが、
城主は長女の成瀬淳子である。
淳子は一族から選ばれ、城を管理する財団法人犬山城白帝文庫のの理事長になった。

なお、日本女子大創立者の成瀬氏は長州藩士で関係ない。
この日は日曜だが待ち時間もなく、すんなり上がって降りてきた。

江戸時代からある天守は12あるが国宝は
長らく姫路、松本、彦根、犬山の4つであったが、2015年に松江城も指定された。
今回で松江以外4つ登ったことになる。
行った城、登った城はいくつになるか、リストをつくろうかな。
犬山城の特徴である唐破風が見えないのが残念。

城を出たところで南山大学の学生がアンケート調査をしていたので協力した。
観光に関する卒論に使うらしい。

広場に出る。
あった、あった。城の一等地に下山順一郎像。
長井、丹波とともに東大薬学部初代教授3人の一人。
明治3年犬山藩の貢進生に選ばれ大学南校に入学した。東大薬学の第一期卒業生である。
東大、東京薬科大(初代校長)にも銅像がある。

この日は本来、薬史学会2日目で、会員は薬史ツアー。
くすり博物館の標本・古典文書など専門的見学の後、この銅像も訪問地の一つだが、私は早く帰京するのでその前に一人で来たということだ。

犬山神社。忠魂碑

断崖の上の城は、木曽川の対岸から見てみたい。

犬山城正面入り口広場からまっすぐ南下する道、本町通りが観光メインストリート。
観光客が行き来する。


本町通りを南下し始めてすぐ右に犬山市文化史料館「城とまちミュージアム」に入る。


犬山城と成瀬家伝来の文化財を管理する白帝文庫もここにある。

成瀬家はじめ御三家についた5家について「付家老のお仕事」という企画展をやっていた。

通りの向かいはからくり展示館。
犬山祭りに用いられる「山車からくり」と、高価な玩具として楽しまれた「座敷からくり」がある。茶運び人形の実演があるらしいが、先を急ぐ。

からくり人形は動いていなければつまらない。
私はむしろ展示館前の長屋門の方に興味があった。
何の手入れもされず、何の説明板もない。ただ撤去するのが面倒というだけで残っているのではないか。このあたりが犬山のすごさかもしれない。

古い町並みを台無しにする唯一の4階建てコンクリートは、犬山市福祉会館。
この辺りに大手門があったらしい。


犬山市は人口7万3千
京大霊長類研究所、明治村なども有名だが、中心市街は思ったより小さい町であった。
名鉄犬山からの駅前通り

かつて全国小京都会議に加盟していたが脱退、
また平成の大合併でも協議会から離脱したのは好ましい。

別ブログ
20191101 長良川と命がけ岐阜城登山
20170917 下山順一郎教授、現役のまま急死


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