2019年11月25日月曜日

松本1 お城と開智学校

犬山城を書いたので、同じ国宝の松本城を思いだした。

2012年、日本生理学会で松本に行った。
遅ればせながら携帯電話をもって2か月目。写真を撮った。
それがパソコンに残っていたのでここで整理しておく。

2012-03-29 7:57
いつものように駅前のホテルを早めに出て、散歩してから学会に行く。
松本城の南西に土塁が残っていた。
石垣というのは大変だから要所以外は掘った土を盛った土塁となる。
西の総掘というから三の丸の外である。

8:02 二の丸公園
いったい何を写したかったのだろうか? 山?
学会会場に急いでいた。

学会からの帰り道に再び松本城による。
1968年(小学6年)、1977年(大学3年)以来の3回目。
2012-03-29 15:42
小学校6年の修学旅行は、中野を貸し切りバスで出発、
明科の長野県水産試験場でニジマスの養殖を見学、
森永乳業でガラスの牛乳瓶に入ったジュースを一本ずつ飲み、
(農機具工場も行ったかも)、
松本城に登ったはず。
夕方の薄暗いなか諏訪大社を見て諏訪に宿泊。
その夜、旅行のおこづかいで(当時錦鯉を飼っていたので)金魚の餌とカメを買った。
そのカメは帰路、尖石遺跡を経て白樺湖?を見下ろす草原でおにぎりを食べているさなか、逃げ出してしまい騒ぎになった記憶がある。
しかし松本城の記憶はほとんどない。
子どもは城よりジュースや亀である。
松本城は信濃守護の小笠原氏の深志城が始まりとされる。
一時期、武田氏に追われたものの、徳川の配下となり復帰、松本城と改名。
その後石川数正がはいる。
石川改易のあと小笠原が再び入城するも、大坂の陣以後は松平康長(戸田松平の祖)、堀田、水野、松平(戸田氏)の居城となった。
だから犬山(成瀬)彦根(井伊)松代(真田)のように城主が前面に出てこない。
松本城は明治5年、競売にかけられ木材を目的に落札された。しかし買ったものが解体費用が出せず、放置されていたのを市川量造ら地元の尽力によって買いもどされて難を逃れたという。
かんなが使われていない柱

明治30年代頃より天守が大きく傾いたらしい。そこで旧制松本中学(現深志)校長の小林有也らにより、天主保存会が設立され、大修理が行われた。
残って国宝になったのは松本の民度の高さによることが大きい。

天守最上階から北を見たら開智学校が見えた。
16:02
見たら行ってみたくなった。

途中、開智学校の南に隣接し、今の松本市立開智小学校があった。
16:18
森泰生・恵美子夫妻の母校である。
なお、平成7年から10年にかけて校舎の全面改修が行われたから、森夫妻の出た校舎は現存しないようだ。

開智学校は、第二大学区筑摩県管下第一中学区の第一番小学開智学校として1872(明治5)年5月、学制発布の年に創立された。
当初は廃仏毀釈で廃寺となった旧藩主戸田氏の菩提寺・全久院(松本市大手町)の建物を仮校舎とした。
明治9年、全久院跡地に新校舎が落成。これが現存する旧開智学校校舎である。
16:28 閉館間際にギリギリ入れた。

開智学校は松本いや信州の教育の中心であった。
明治24年設置された開智学校書籍館は松本図書館のはじめという。

その後、明治から大正にかけて開智学校に源池部、田町部、筑摩部、、、、など分校が設立され、それぞれ後に小学校として独立した。

昭和38年、 開智・田町両小学校が統合され、開智小学校となる。
40年、現在地に新校舎落成。
昭和36年、重要文化財に指定された開智小学校校舎は、38年3月まで大手町で約90年間使用された後、翌年にかけて現在地に解体移築復元された。

そして2019年9月、近代の学校建築としては初めて国宝に指定された。

16:48

隣接して移築された明治の洋館、松本市旧司祭館は閉館していた。

帰路、再び松本城を通った。
17:10
夕日を浴びる天守は確かに美しいが、城好きとしては、今一つ物足りない。

松本は長野県の中核都市。城は駅の近く。山や谷はなく完全に平地にあった。
そのため、市街地の開発で堀は南から順次埋められた。その結果、総掘全部、外堀の南、西部分、三の丸は消失した。そして城内二の丸には筑摩県庁や尋常中学などが建てられた。

同じ国宝の彦根、姫路などは平山城だから地形を利用とした縄張りなどがよくわかる。しかし松本城は福井城のように市街地になってしまい、城址としてはあまりおもしろくない。
ところが、平成になって観光ブームが到来、環境破壊の代名詞のような観光開発が皮肉にも復元を始めた。黒門、太鼓門の再建である。ブログ冒頭の土塁整備などもその一環であろう。

しかし、さらに二の丸の外、外堀を西側まで復元しようと、民有地の買収も進めたが、基準値以上の鉛が検出された。堀の復元を諦め広場になるようだが、残念である。鉛の少ない部分だけでも水を張れないものだろうか。

1977年夏、長野高校剣道班が松本での県大会に出場した。
その数日前、先輩として合宿に参加していたので応援に来た。我々の代の主将だった信大医学部の由井克之と合流、大会が終わったあと、松本城見物に来た。
1977-08-14 これが二回目の松本城。
初めて見た小学校のときから9年しか経っていなかったことに驚く。



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