11月16日、文京シビックセンターに来た。
北口から出ると富坂。
(西)富坂。15:42
広角の写真では傾斜がわからない。
これから家に帰るのでこっちの小石川方面にはいかない。
(東)富坂(真砂坂) 15:47
本来の東富坂は、この南をとおる丸ノ内線に沿った急な坂。昔は鳶が多くいたから鳶坂と言い、それがなまって富坂になったとか。
こちらの新しい富坂は市電を通すにあたり、斜めに緩やかな坂道を作ったもの。
もとの坂を旧東富坂というらしいが、ふつうはこちらを新富坂と言うのではなかろうか。
壱岐坂も急な坂道だったものを関東大震災のあと斜めに広い坂道をつくり、新しいほうを壱岐坂にしている。
きょうは家に帰るので坂は上がらない。
15:50
地下鉄春日駅、白山通りの出口のすぐ北は昔ながらの街並み
階段状の公園。
白山通りから一本東の通り。
このあたり本郷連隊の司令部があった。
東京の北部と埼玉県の一部の徴兵・召集などを担当した。
敷地は東は鐙坂まで。戦後は財務省真砂住宅などになっている。
15:54
公園に上がると女子中学生が仲良くパンを食べていた。
再び白山通りに出る。16:01
司馬遼太郎が『本郷界隈』で滑走路のように広い通りに出た、という所である。
16:02
樋口一葉終焉の地。紳士服のコナカの前
後楽園ホールでの競技会、オリンピックなどでの買い物、単なる散策など何回も前を通っているが、写真を初めて撮った。
一葉は本郷法真寺前、下谷、芝、神田など転々とし、
1890年(明23)9月、本郷菊坂にくる。(18歳)
1893年7月、下谷龍泉寺町で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開く。
1894年5月、ここ、丸山福山町に転居
1896年11月23日、24歳6ヶ月で死去
一葉は文京区が一番長いのに記念館は9か月しかいなかった台東区にある。
文京区というのは他の区と比べ文化事業に無関心である。
丸山福山町の家は崖下の池のほとりにあった。
病と貧乏に苦しみながらも、最後の年は奇跡の14か月と言われ、多くの文人たちが訪れた。
それなら崖下でなく坂上が 丸山福山町となりそうだが。
上の西片町に上がる坂が明治にできた。
新坂(福山坂)16:05
新坂という坂は文京区に6つあるらしい。
福山坂、S字坂、外記坂、本郷6丁目に上がる坂、あとは?
東京に来たらホームセンターが近くになく、野菜の苗は白山通りのオリンピックまで買いに来た。福山坂はその時初めて上がったが、途中から自転車を押した。
その季節の西片お屋敷町は特に美しかった。
きょうは坂を上がらず再び丸山福山町に降りる。
この町は崖下に細長い。
昭和40年ころの新住居表示では、この新坂より南を西片1丁目、北を白山1丁目とした。
富士見湯。16:07
数少なくなった単独、かわらぶきの銭湯。
自由に止めてある自転車がいい。
このあたりあまり変わっていない雰囲気
崖下にいく道をたどる。
16:09
左が白山1丁目、右が西片。
住む人が違うということもあったし、崖には道が作りづらいため交流がなかったということもあった。だから昔は町が違ったのだが、千駄木林町と千駄木坂下町は一緒にして千駄木3丁目とした。
その少ない坂道のひとつ。
曙坂 16:10
もちろん江戸時代はなかった。案内板に、坂名は駒込曙町からとったという。
しかしだいぶ北に離れているし、ここは西向きの坂だから曙はあまりふさわしくない。
戦後すぐ、1947年、丸山福山町・曙会の尽力により石段に改修されたというが、それまでは土だったのだろうか?
ここは文京区が公式サイトでロケ地として推薦していた。
誠之小学校は工事中。
16:13
校舎があったころは崖だったような記憶があるが、ずいぶん広々している。
16:14 胸突坂(峰月坂、新道坂)
白山1-24と西片2-15の間、すなわち丸山新町と駒込西方町の間の坂。
今年の2月、確定申告に来たときは樹木の茂る屋敷があった。
2019-02-17 胸突坂
どんどん坂道の木が消え、殺風景になっていく。
16:16 美しい石垣。
16:16 中坂
ここは頂上に登った人がすぐ見えなくなるほど急で、むしろこっちが胸突きである。
16:17 登録有形文化財の個人宅
16:19 八百屋お七の墓がある。
入口が新しいというか、作ったばかりのよう。
普通のアスファルト道路のような参道?の右、横向きに新築の寺?
ネットの写真を見ればほとんどが新築前の小さな本殿と、コンクリートと砂利の参道。
つい最近こうなったようだ。
16:21
入り口わきの寺務所には女性が3人。
御朱印はこちら、というような貼り紙も。
八百屋お七の墓
江戸時代からここにあったのか? 明治以降にお七のだけ移したのか?
八百屋お七については以前吉祥寺のところで書いた。
火あぶりの刑というのはすさまじいな。
当時の人は見るに耐えられたのだろうか?
しかし一般の墓がないのだろうか、と見れば奥に扉が。
見えないまま、塀の上からスマホを掲げシャッターを押してみた。
16:22
円乗寺の前は坂道。
16:24 浄心寺坂
今、この寺はない。
江戸切絵図には円乗寺の東となり(坂上方向)に浄心寺がある。
いま本郷通りに浄心寺があるが、公式サイトでは明暦の大火で湯島から移転してきたとあり、江戸切絵図にもある。すなわち同名の寺が二か所にあったわけで、別なのだろうか?
16:28 坂上からみる。お七坂ともいうらしい。
坂上から家とは逆方向、南に入ってみる。
16:31 数年前売りに出た家。(奥の崖の上)
昔の医者が住んでいた家で、手の込んだ造作が素晴らしく、壊すのが惜しまれた。千駄木のたてもの応援団が有志に買い取りを呼び掛け、見学会も催された家である。幸い、買い手が見つかった。
表札は洪・木村とある。塀には覆面レスラーのような案内板が。
その立派な家は東大進学塾、プリパス本郷教室になってしまったのだろうか?
16:33 このあたりは古い家が多い
ちょうど胸突坂の上に当たる
16:35
20分前に胸突坂下から見た更地はずいぶん広い。
このまま旧中山道に出た。
16:37
丸山福山町は西片の西の崖下であったが、丸山新町は西片の北、坂の上から下まで広がっている。
16:40
中山道を北に歩くと、ほうろく地蔵尊、大圓寺の石柱。
隣は材木屋さん。
ここを抜けて帰るか、と右折。
大圓寺は都立向丘高校と並んでいる。
ここには高島秋帆(1798-1866)、斎藤緑雨(1867-1904)の墓がある。
いまの板橋区徳丸は東上線と高島平の間あたり。10年くらい前、家を買おうとしてそのあたりの物件を何回かネットで見て地名を覚えている。
はて、高島平の高島は彼の名前から来ているのだろうか?
緑雨は、鴎外、露伴とともに「めざまし草」の匿名文芸批評「三人冗語」で一葉のたけくらべを絶賛した。
16:41
ほうろくとは久しぶりに聞いた。
辞書をみれば、焙烙。素焼きの土器で、形は底が平たく縁が低い。
茶葉、塩、米、豆、銀杏などを炒ったり蒸したりするのに用いる。と。
大円寺は谷中にもある。
あちらは笠森おせん、菊人形祭りで有名だが、こちらとの関係は知らない。
16:42 暗くなってきた。
細い道は大圓寺の間を抜けて本郷通に出る。
高島秋帆の墓は左側にあるらしい。
文京シビックセンターからずっと歩いてきた。
坂を写真にとるため上がったり下がったりして距離以上に時間がかかり、疲れた。
追記
2019-12-11
坂道散歩のついでに白山通り紳士服のコナカ、一葉終焉の地を通った。
借りていた鰻屋の離れは、崖から染み出る水で池があったことを思い出した。
2019-12-11
白山通りはびっしりビルが並んでいるが、コナカの隣、裏に入れそうな通路を発見。
ここが一葉終焉、丸山福山町の借家のあったところだろうか。
別ブログ 吉祥寺と八百屋お七
千駄木菜園 総目次
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