2007年から2013年にかけて7冊、翻訳した。
最後の『第四の大陸・人類と世界地図の2000年史』は2015年の出版だが、翻訳自体は2013年4月の転職前にほぼ終わっていたから、6年で7冊。
サラリーマンをしながら朝晩の電車、土日、有給休暇、ときにダンス競技会の最中(待ち時間)でも翻訳が楽しくて熱中した。
まさか自分が翻訳、出版するなんて思っても見なかったが、きっかけは2007年3月、アメリカ生物物理学会で出張したボルチモアにある。
学会出張すると必ず本屋に行く。
ボルチモアにはバーンズ・アンド・ノーブルがあった。
2011-03-07 Barnes & Noble
もと power plant 発電所?の建物と聞いた。
2004、2007、2011年と8泊10日の滞在を3回して、学会会場のCovention Centerのそばだから昼休み、夕方などここには何度も来た。
会員になって割引クーポンの付いたダイレクトメールがずっと来ていたほど。
もちろん店内は今でも覚えている。
店に入ると左手にカウンターがあり、ちょっとしたギフト、文房具なども売っていた。何回かみやげを買った。
その奥にヘルス、スポーツなどのコーナー。
2011-03-07 14時頃
発電所時代の巨大円筒?がそのままインテリアになっている。
エスカレータの脇には雑誌、観光、道路地図などがあった。
エスカレーターは中が見える。
二階に上がったところにバーゲン本。
ここが大好きだった。
大体買うのは歴史、地理、生物などのビジュアル本。
子どもへの土産に日本のコミック(英語版)などもみた。
喜んで買うのだが、帰るときはとてつもなく重い。
2011年ころはタイトルをメモし、日本帰国後アマゾン、紀伊国屋に注文したのだが、やっぱりバーゲン本は買ってしまう。
子どもには英語を勉強させたくて、必ず本を買って帰った。
初めてここに来た2004年には、ダンス部だった長女にはバレエかダンスの雑誌を探した。
そして2回目にボルチモアに来た2007年3月初め。
息子は野球部だったから野球のトレーニングに関する本を探した。
1階のスポーツのとなりは医学、健康のコーナーだった。
そこで偶然目に入ったのが『Miracle Medicines』。
ちょうど出版されたばかりで表紙がこちらを向いていた。
ぱらぱらめくるとレミケード、リピトールなど日本でも有名な7つのブロックバスターの研究開発物語だった。
こんな本は今までなかった。
日本の医薬品研究開発物語と言うと、たいてい偉くなった人の回想録みたいになっていて、内容があまりない。
ちょうどファルマシアの編集委員をしていたのできちんとした大型医薬品の研究開発物語を載せたいと思っていた。
内容を見ると、実に多数の研究者が実名で登場し、病気の歴史、テーマの立案から困難の克服、成功、工場生産から販売、会社の歴史まで書いてある。
早速買ってホテルで読んだ。
面白い。これは翻訳すれば売れると思った。
発行日は2007年3月1日。
もし1週間ずれていたら出会えなかっただろう。
出版前はもちろん存在しないし、おそらく1週間後には一般書棚に収まり、なんの意識もない私は気づかない。
追加でもう1冊購入、帰国。
はて、しかしこれを翻訳してファルマシアに連載するには著作権などどうするのだろう?
いっそ、成書として出版できないだろうか。私ができるだろうか。
ざっと内容を書いて東京化学同人、Iさんにメールした。
ちょうど1か月ほど前、ここの細胞生物学の本をファルマシア書評欄で取り上げたら、担当だった彼女が喜んでお礼のメールを下さった。それだけの関係だが他に知っている編集者はいない。
翻訳できるかどうか自信もなかったし出版社の考えもあるだろうから、他の人が翻訳しても良い、原稿料もいらないと書いた。
Iさんはすぐ興味を持ってくれて、構造式を入れましょう、写真も入れましょうと提案され、さらに(内容の一部の見本としてつけた)私の翻訳原稿を添削してくれた。
結局東京化学同人は出版してくれなかったのだがダイヤモンド社が受けてくれ、翌年7月出版された。自分の訳した本が書店で横積みになったときの嬉しさは忘れられない。
2011-03-07
しかし出版される以前に、むしろ翻訳自体の面白さに目覚めてしまった。
翌2008年の同じ学会でカリフォルニア、ロングビーチに行ったとき本屋で見つけた「Diseases」(人類を襲った30の病魔)を、出版の当てもないのに訳しはじめ(2010年、医学書院からオールカラーで出た)、さらに「Happy Accidents」(セレンディピティと近代医学)も中央公論社から出版できた。
そして2010年には4冊目の「モーツァルトのむくみ」を翻訳した。
これは12人の歴史有名人の病気、死因について残された史料から現代医学の目で論ずるというけっこう専門的、マニアックな本。よくある歴史面白雑学本ではなく、だいいち出版元がアメリカ内科学会である。
翻訳というのは英語の力はあまり要らないが、ただ著者と同じくらい内容に近づくことが大切である。すなわち専門知識はもちろん、できるだけ調査する。
モーツァルトなど12人の有名人の中にエドガー・アラン・ポーがあった。
彼はボルチモアで謎の死を遂げた。
2011年3月は、この翻訳がほぼ終わった段階でボルチモアにやってきたのである。
幸いここにはポーの墓と記念館がある。行かない手はない。
この町は3回目、土地勘もある。
泊まっていたDays Innから0.5マイル11分。
Westminster Hall の墓地。
2011-03-05
入るといきなりポーの墓があった。
ボルチモアは彼の両親が過ごしたところで、ウェストミンスターホールにはたまたま祖父の墓もあった。
寒い午後、中をあるく。
ここにもポーの墓があった。
ポーは1849年10月8日に亡くなり、翌日、雨の降りそうな寒い夕方、この場所に埋められた。親族と友人、ほんの数人の立会いの下、儀式はたった3分で終わったという。
草に覆われた数年後、目印に「No80」とだけ書かれた砂岩のブロックが置かれる。
やがてこの惨状に心を痛めた地元の教師らが寄付を募り、1875年立派な墓碑が用意され、遺体は掘り返され墓地西北の入り口付近に移されたらしい(最初の写真)。
だからこれは墓碑ではなく、最初に埋められた場所の記念碑である。
死んで26年後に掘り返されたことなどどの伝記にもない。
ここに来て初めて分かったことである。どうでもいいことではあるが。
火葬ではなかったからこんな墓もある。
墓地がいっぱいになったあとは百年、何十年も新たに埋められることはない。日本の寺と違うところだ。
Westminster Hall の墓地を出てまっすぐ西、ハイウェイを越えて0.6マイル13分。
2011-03-05
ポーの家、博物館。
彼はボストンで生まれ様々なところに住んだ。バージニア州リッチモンドでそだち、ボルチモアは父の実家があったところで、文筆活動を始めたところでもある。1849年、リッチモンドからニューヨークの家に戻る途中、なぜかボルチモアで数日滞在し、10月3日、なぜか他人の服を着て泥酔状態で発見され、謎のうわごとを言いながら4日後に死亡した。
博物館は閉館していた。
行くときは何とも思わなかったのだが、付近はいわゆる危ない場所だった。
黒人の若者(少年?)数人が汚い車のボンネットにのってゆすっていた。
私が横を通り過ぎる時、にやにやこっちを見た。
私はボルチモアに延べ24泊もして、ここの汚い場所、変な人に慣れているのでそのまま通り過ぎた。
2011-03-05
この後レキシントンマーケットによって夕飯を買いホテルに帰った。
撮ったポーの墓の写真は、帰国後、訳者注としてしっかり原稿に入れた。
(原著者の許可なく本文には入れられない)
博物館は入らなかったがポーに関する知識は一気に増えた。
訳者というのは原著の一番のファンであり熱心な読者である。
だから文脈の間まで取材する。
翻訳文には反映されなくとも、訳者というのは英語力よりこういう努力が重要だと思っている。英文の翻訳自体よりずっと時間がかかるけれども、これが楽しいのだ。
別ブログ
20200414 ジョンズホプキンス大学とイオンチャネル創薬
20200417 ボルチモアへの学会出張
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