2020年7月20日月曜日

丸ノ内線の車両基地は茗荷谷を埋めて4階建て

7月12日、水道通りから荒木坂を上がり茗荷谷におり、春日通に上がって再び谷に降りた。
1時間半ほどの散策だったが面白くていくつもブログに書いた。

最後は埋められた茗荷谷について書く。
地形が複雑だから坂が多い。

茗荷谷は拓殖大学東門前で南北の谷が合わさった後、第六天町をとおって巻石通り、すなわち神田川に開いている。
国土地理院(1936)
左上に竣工したばかりの拓殖大学本館、右下に徳川邸がみえる。
十字の下が小石川区役所、すなわち庚申坂。
その上の藤坂が広い。

第六天町の徳川邸から向かいの丘の会津松平邸(上の航空写真の緑地)をみると谷間に小さな家がいっぱいあったと書かれているように「徳川慶喜家の子ども部屋」(榊原喜佐子)、茗荷谷の南の部分には民家が並んでいた。それが今は一軒もない。
すなわち、地下鉄丸ノ内線とその車両基地によって埋め立てられた。

2020-07-12 16:02
左は丸の内線の高架線路。線路は釈迦坂と藤坂の間で道路の南側に来る。
線路の下は東京メトロ車両基地の工場、事務所になっている。
右は藤寺すなわち傳明寺の垣根

丸ノ内線は戦前の銀座線に次いで日本で2番目、1954(昭和29)年に開業した(池袋ーお茶の水の間)。
もともと大正時代の地下鉄4号線として計画され(当初は大塚に向かった)、営団地下鉄は1944年、中野富士見町、善福寺川沿いに同線用の車庫用地(現在の中野車両基地)を確保していた。
ところが戦後、計画が見直された際、池袋から着工することになり、山手線の中に車両基地を作らねばならなかった。
この路線は茗荷谷と後楽園の間、地上を走るため、茗荷谷に作ることになる。

当時の地下鉄はシールド工法でなく地上から掘ったから浅い。だから茗荷谷から壱岐坂、またお茶の水、四ツ谷では地上に出てしまう。茗荷谷も十分深いから線路は中腹に顔を出した。だから車両基地を作るには中腹まで盛り土しなくてはならない。土は掘った後の残土が十分あった。
荒木坂、切支丹坂、庚申坂、旧徳川邸を見れば、谷全部が埋まっている。

1954年に開業した時は10,560m2で30両でいっぱいになったが、翌年には16,300m2の予定用地いっぱいの60両の基地が完成した。しかし、お茶の水の先、東京まで延伸すると乗客数が増え、1959年新宿まで延伸するとなると、さらに広い基地が必要となった。

そこで用地をさらに買収、敷地を有効活用するため修理工場は立体化した。
この工事は1958年から始まり1962年完成、工場へ入った車両は4階からクレーンにより10m下にある1階の作業場へ移動し、検査業務を行うらしい。

グーグル3D

左は松平邸跡に建てられたコーシャハイム、右は慶喜邸あとの森。
茗荷谷だけでは足りず、荒木坂上の旧松平邸も削られている。
民家と比較すると線路は4階の高さであることが分かる。

現在の敷地は、30,683m2 
車両留置能力は、102両(6両編成17本)
なお小石川検車区は、2011年に組織統合され、中野検車区小石川分室となった。

16:06
線路は庚申坂、切支丹坂のところで道路の北にうつる。
すなわち、写真は線路と車両基地の間である。

車両基地により、川が流れ民家の並んでいた茗荷谷の南部は、ほぼすべて残土で埋め立てられ、この道路だけが絶壁の渓谷のように残った。左に旧徳川慶喜邸の森を見ながら、1時間半前に出発した巻石通りに戻った。

千駄木にきてから丸ノ内線は一度も乗っていない。
埼玉にいるころ沿線の本郷、後楽園は上野、水道橋から歩くことが多かった。池袋から乗っても本を読んだりしてしまう。それでも茗荷谷駅で地下から出たとき目に入る鮮やかな緑は、数十年でたった1、2回でも記憶に残っている。


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この日の茗荷谷散策のブログ
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