三丁目坂
幽霊坂とか暗闇坂というのも芸がないが、三丁目坂も安直すぎないか?
しかしここは由緒ある三丁目である。
江戸時代、護国寺前の音羽通は両側が町屋で、北からー丁目、二丁目、と九丁目まであった。それが坂の名前になっている。
昭和32年
江戸時代の町名がそのまま昭和40年ころまで続いていたのは珍しい。
いまは統合、二分され皇居に近い南から1丁目、2丁目である。
三丁目坂 下から。
坂下は音羽通りと並行してすぐ崖側に首都高が上を通っている。昔の弦巻川の暗渠である。
そこを崖線に沿って、つまり高架下を音羽通と並行に南下。
2020-07-26 16:14
桂林寺参道という石柱
桂林寺坂とする。
鉄砲坂
江戸時代、坂下右の東京音大・学生寮のあたりに、崖を利用して鉄砲の射撃練習をした的場(角場・大筒角場ともいわれた)があったからという。
関口台公園
鳥尾坂
坂上に鳥尾小弥太子爵の屋敷があった。屋敷地の北の鉄砲坂は急すぎて人力車も自動車も上れなかったため、私財を投じて坂道を開き、石柱が立った。
坂を上がれば右に東京カテドラル聖マリア大聖堂、左に独協中学、高校がある。
2年前に亡くなった叔父は旧制独協中学に入ったが、戦時中の勤労動員などであまり勉強できなかった。墜落したB29からボルトナットを回収するよう命じられ、1日内職のように座り込んで、これじゃ勝てない、と思ったらしい。この坂を上り下りしたのだろうか。
昭和7年
これをみれば関口台公園も鳥尾邸だったようだ。
鳥尾は長州藩士、戊辰戦争で活躍し陸軍少将、中将に昇進したが、山縣有朋、大山巌らの陸軍主流派と対立したため、教科書に載るほど有名になっていない。
鳥尾坂のすぐ南に蓮光寺。
ここは音羽通まで参道が続いていたようで、現在その参道を横断して首都高が走っている。淘宮開祖丸三翁の墓と石柱がある。
そっと入らせてもらう
七丁目坂
関口三丁目公園の南、旧・音羽七丁目と八丁目の間を上る坂
あがっていくと独協中学・高校のうらで鳥尾坂に出る。
目白新坂
左はニチバン本社。1階の関口フランスパンは明治21(1888)年、小石川関口教会(東京カテドラル)付属聖母仏語学校製パン部として創業。フランスパンを日本に広めた老舗という。
この道は目白坂のバイパスとして明治に開かれたが、新目白通りとは言わない。
そちらは江戸川橋南詰から神田川の南を西にいき、落合南長崎で目白通りに合流する。
目白新坂はあくまでも目白通りである。
そちらは江戸川橋南詰から神田川の南を西にいき、落合南長崎で目白通りに合流する。
目白新坂はあくまでも目白通りである。
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