2020年9月25日金曜日

城官寺の寺名、なぜ多紀家、多い榎本家、

たまたま「医心方」について自分のブログ(2018年)を参照したら、他の関係ない話と一緒にまとまりなく長かったので、2つに分割することにした。
2018年11月11日、上中里の平塚神社から城官寺までを訪ねたブログである。

JR上中里駅から西に上がる切通しのような蝉坂を挟んで、平塚神社の反対に平塚山城官寺がある。

地名に過ぎない平塚山とはまたずいぶん素直な山号である。寺名も変わっている。
意味がありそうだ。
2018-11-11 16:19
実はこの日が2回目の訪問
よく自転車で滝野川体育館に来るからね。

慶長年間つまり江戸時代のはじめ、盲目の山川貞久(通称城官)は、鍼の道を究め、将軍家光付きの侍医となった。家光が病に倒れたとき平塚明神に病気平癒を祈願する。
(彼は平塚郷の出身)
回復したことから山川城官は、平塚神社と付属の安楽寺(神仏習合)を修復した。
家光がそれを知って、平塚明神へ社領として50石、城官への恩賞として知行200石を与え、安楽寺を城官寺安楽院とするよう命じたという。

彼の墓もある。

当山開基 山川検校城官一族墓
検校(けんぎょう)とは、琵琶奏者とか鍼灸者など盲目の職業集団の最高位の役名。


ところで、この目立たない上中里の、目立たない城官寺に多紀家の墓所がある。
多紀家というのは丹波康頼につながる医家であり、丹波本家が衰退した後、徳川幕府始まりからずっと幕府の奥医師を務めた家柄である。
一方、京都で朝廷の侍医だった半井家は和気清麿につながる。

丹波、和気は代々朝廷の典薬頭をつとめた。
なお、丹波康頼(912-995)が著した『医心方』全30巻は、室町時代に正親町天皇から典薬頭半井家に下賜された。江戸時代になって丹波―多紀家で失われた『医心方』を多紀家は取り戻そうとするが、なかなか入手できず、幕末になって幕府が仲介してようやく筆写できた。この半井本を1982年に文化庁が買い上げ、国宝となった。
なお、東大薬学の教授・丹波敬三、その孫の丹波哲郎、は丹波家につながる。

しかし、なんでここ城官寺にある?
多紀家なら増上寺とか、寛永寺でも、あるいはもっと近くにいくらでも寺はあるだろうに。


塀や策で囲まれていなくて、ゆったりと、代々の法眼の墓石がゆったり並んでいる。

これ以上文字が崩れないように、アクリル板で覆われているのもあり。

16:28
控えめな墓石群
普通は、たいそうな石にごてごてした戒名、大げさな石塔に、石の柵で囲む。
品のある多紀家墓所だ。
墓が派手になるのは明治以降なのか。

城官寺で書くべきことはもう一つ。
墓に榎本姓が「異常に」多いこと。
この日、田端から西ヶ原まで散策し、ブログ何本分かになるほど、いろんなものを見たが、これに一番びっくりした。
古い立派なものも新しいものも、2つに一つくらい榎本家ではないか。
(嘘だと思う人は行ってみればいい)
文言はどれも同じだから、その家のものでなければ、墓を区別できない。
ロッキード事件の榎本敏夫氏の墓もここらしい。

いつの間にか寺の門が閉まっていた。
脇の駐車場から出て、暗くなる中、無量寺によって帰宅した。




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