10月4日、原宿に来た。
明治神宮を見たあと久しぶりに東郷神社に行ってみる。
2010-10-04
竹下通りのクレープ屋の脇から左の高台に上がる。
多分25年ぶり。
彼が昭和9年5月30日に亡くなって昭和12年に地鎮祭、昭和15年5月27日の海軍記念日に鎮座祭が行なわれた。
空襲で焼失したが、昭和39年に再建された。
太平洋艦隊司令長官だったニミッツは東郷を非常に尊敬していて、三笠の保存だけでなく、戦後社殿を再建するときもThe Great Sea Warの日本印税10万円をそっくり寄付したりして尽力した。アナンの前の国連事務総長(1992-1996)であったブトロス・ブトロス=ガーリ(エジプト)も、来日した際、東郷神社に必ず参拝していた。
東の森の中に東郷記念館がある。
一度、海上自衛隊東京音楽隊の音楽会(無料)にきた。
東郷幼稚園
帰宅して段ボールを探した。
会員証なども出てきた。
日本史と散歩が好きとなると、宗教と戦争は避けられない。
30代後半から40前半にかけて、特に海軍に興味を持った。
当時はネットなどなかったから古書店で戦記物を漁り、そして東郷会に入った。
機関紙・月刊「東郷」
1995年6月号から1998年8月号まである。
海軍にいた人の貴重な体験談が毎月載っていて、資料的価値もあって処分できず、引っ越しのたびにずっと保管してきた。
しかしどういうきっかけで入会したのだろう?
推薦人が必要ではなかったか?
1995年9月は13人入会。
私の紹介者として浅井啓之という名前がある。
すっかり忘れていたのだが、手紙が挟まっていた。
1995年の終戦記念日に靖国神社で(財)日本国防協会理事・浅井啓之様にお会いし、誘われたようである。
文中、阿部久二先生というのは元田辺製薬専務で薬理研究所の所長。海軍薬剤官として戦艦日向に乗り組まれた方である。海軍の医官、薬剤官OBでつくる桜医会の会長だか副会長をされていらっしゃった。(多くの医師を差し置いて会長になられたのはご長寿だったことが大きいだろう)。
この2,3か月後、荻窪のご自宅にお邪魔していろんな書類や品々を見せいていただいた。
昔と変わらず、東郷元帥ゆかりの絵画や歌が飾ってある。
太平洋艦隊司令長官だったニミッツは東郷を非常に尊敬していて、三笠の保存だけでなく、戦後社殿を再建するときもThe Great Sea Warの日本印税10万円をそっくり寄付したりして尽力した。アナンの前の国連事務総長(1992-1996)であったブトロス・ブトロス=ガーリ(エジプト)も、来日した際、東郷神社に必ず参拝していた。
靖国神社と違い騒がれるることもなく、幼稚園や七五三など、地域の人に愛されている。
正面から石段を降りると、新しい建物ができていた。
もうほとんど記憶がない。
お年寄りばかりの聴衆の好みにあわせ、クラシックの他にきれいな女性隊員(位は士長だった)が瀬戸の花嫁など昭和の歌謡をうたった。最後の軍艦マーチになると前のほうで聴いていた一人のご老人が指揮者のように手を振り始めた。
2020年のこの日、ウド鈴木がロビーを歩いていた。
音楽会は広い部屋で東側から西を向いて聞いた。
その窓から池を見た景色は覚えている。
ちなみに現在東郷記念館は神社の経営ではない。神社直営のルアール東郷は北の新しい道路を挟んで向こう側にある。昔は全部、社地だった。
ここは因州鳥取藩池田家の抱え地だった。
神社建立に当たっては、麹町の元帥邸、大正天皇の多摩御陵付近、多摩墓地近くの元帥別邸などが候補だったが、明治天皇に仕えたのだからと、明治神宮宮司、有馬良橘海軍大将(日清、日露で活躍。東郷の側近)の決断でこの地が選ばれた。
二万坪のうち、800坪の池を含む一万二千坪を池田家から割譲してもらい、昭和12年、造営に着手した(「東郷」2020年5・6号)
(安政年間の地図だと池田家でなく津和野亀井家の抱え地だったようだが?)
水交会の会員は本来は(水交社の利用資格者なら)任官した74期、卒業した75期だが、78期までも予定者ということで正会員だろう。
庭に降りると水交社と彫られた鳥居があった。
芝の水交社から移設したものか。
戦前は増上寺の西、紅葉館と隣接していたが、米軍に接収され、今はフリーメイソンの日本本部になっている。
いや、隣の柱に明治四十(四?)年十月とあるから、水交社が芝に来る前、築地にあったときのものか。
水交社というのは海軍の士官、将校以上の軍人による親睦団体。
終戦とともに消滅したが、1952(昭和27年)に財団法人水交会として復興した。
私は1995、平成7年7月7日の777に入会している。
覚えているのはここ東郷神社にあった水交会事務局で入会手続きしたとき。
かなり年配の女性がにこやかに、会費のお釣りを革のトレイだったかに入れて丁寧に返してくださった。おそらく海軍士官の美しき未亡人だったのではないか、と勝手に思ったが、とても上品な方だった。
機関紙・水交は非常にレベルが高かった。
読者、会員は一般人でない専門家、内輪のものたち。それも一高、東大に行くより難しかったという海軍兵学校出身者ばかりであるから、貴重な戦時中の体験談が主であるが、当時の兵器や国際情勢の解説まで、とても勉強になった。
1995年から2001年まで各年度別にビニールに入れて保管してある。
検索機能がないからなかなか見る機会がないのだが。
平成7年7月の新入会員をみれば私の住所は埼玉県伊奈町小室7022-30。
出身別欄に「有志」とあるのは、このころ会員が老齢でどんどん減少し、海軍を愛し水交会の事業に賛同するものにも門戸を開き、それで私が入会したからである。
「遺族」「家族」「有志」も目だつが、
兵75,兵77,兵78と兵学校出身の正式資格者もいる。
江田島の兵学校は74期が戦争中の1942年(昭和17)の12月入学。
このとき修業年限は4年(明治のころは3年)から順次短縮され2年4か月になっていたから、彼らは20年3月に卒業し前線に出た。
私と同じ月に新入会された兵75の方は、1943年12月入校、在学中に終戦、昭和20年10月に卒業証書が出された。76期、77期のかたは江田島にいるうちに終戦となり、(皆旧制中学を優秀な成績で出ているので)戦後旧制高校、新制大学に進学される人が多かった。
では78期というのはなにか?
昭和20年4月、長崎針尾島にできた兵学校予科である。昭和3年1月1日から昭和6年3月31日までに出生したものだから14歳から17歳。1年教育を受けたあと江田島に行く予定だった。9万人の優秀な志願者から選ばれた4048人である。
(昭和13年卒65期までは100人台、その後漸増、74期が1024人、平時の定員は300人)
しかし、彼らも高齢で会員は年々減る一方、その危機感から私のようなものにまで門戸を広げたのだ。
それでも消滅は明らかで、苦肉の策として海上自衛隊OB会の海上桜美会と合併し、後継者を作った。(陸軍(偕行社)は陸上自衛隊とまったくつながりがないが、海自と海軍はずっと仲が良い。)
「水交」「海上桜美」合併号 (2001年、平成13年3月号)
2020-10-04
神池からみる東郷記念館
1992年まで右奥(背後のマンションの右)に立派な洋館、海軍館がみえたはず。
日本社会事業大学の移転後、解体され原宿警察署になっている。
1988-1990年ごろ。十字が東郷記念館
海軍館の他に東郷女子学生会館もみえる。
1995年の東郷会、水交会の会員は、平均寿命を考えれば、ほとんど入れ替わったはずである。
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