11月9日、日比谷公園に来た。
有楽町駅が近い北東の入り口に石垣がある。
初めて見たわけではないが、初めて考えた。
はて、これはどこからどこに入る門だったのだろう?
四谷や市ヶ谷、牛込などは外と内がはっきりわかるが、ここは何か?
江戸城の門はたいてい濠に面し、外から渡った内側にある。
すなわちここも外に濠があったはずだが、今は晴海通りの向こう、第一生命ビル、帝劇ビルの前、北に離れて馬場先濠があるだけだ。
公園側にパネルがあるが知りたい説明はない。
帰宅して日比谷御門をみる。
濠で分けられた中央の大きなのが大名小路右が大手前、上が西の丸下
左上が外桜田にあたる。
つまり日比谷見付は外桜田と大名小路の間にあった。すなわち内と外ではなく、外堀の内側の2つの曲輪をつなげるものだった。双方とも大名の上屋敷が並ぶ。外様も譜代も混じりあまり意味がない門である。
江戸情報地図
ここで江戸城築城の縄張りを考えてみる。
城は同心円の輪郭式、並列の連郭式、本丸を端に寄せた梯郭式などがあるが、江戸城、姫路城などはカタツムリのような渦郭式といわれる。
輪郭式などは本丸の防御を深くすると他の曲輪との連携がとりにくいが、渦郭式なら、本丸に直接向かう堀を深くしても、一方向は他の曲輪につながっている。攻める方は周囲を回りながら本丸に行くというイメージである。
https://social-studies33.com/2018/03/26/江戸城の内堀と外堀/
本丸・二の丸→三の丸のあと、どこへ行くか?
三の丸のすぐ東に大手前があり、そこから大名小路、西ノ丸下、西ノ丸と回れるが、堀を見れば違う。
本丸と西ノ丸はそれぞれきれいに濠に囲まれ独立した城に見える。
西ノ丸下は日比谷入り江として海だったところを本丸西ノ丸の前を広げるため埋め立てた。
だから本丸三の丸→(西ノ丸下)→西ノ丸と回るが、これらは一体とみるべきで、そのあと吹上→北の丸とまわり、大手前→大名小路→外桜田→番町→駿河台→町人地(神田、日本橋、銀座)→墨田川、海、と蝸牛ができる。
外桜田の東部分
この順番は外桜田と大名小路の間の日比谷見付が大名小路側にあることからもわかる。日比谷見附のすぐ東南のほうに山下御門があるが、これは場外から外桜田に入るから門は堀の西側にあった。(上の江戸切絵図)
実際江戸城は、本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の周囲16kmにおよぶ区画を深い内堀に囲まれた本城とした。
明治11年実測東京全図
日比谷見付の外は陸軍練兵場となった。
ここが日比谷公園になる。
あらためて日比谷公園を見ると東の石垣の西に心字池がある。
すなわちここは大名小路側から濠をへて外桜田を眺めていることになる。
つまり日比谷から見て一見皇居に近い西側すなわち霞が関、桜田門側が外になる。
なるほど、池ではなく濠に見えてきた。
日比谷門のすぐ脇に、伊達政宗終焉の地とある。
彼の時代はここに仙台藩の上屋敷があったらしい。
しかし幕末、嘉永年間では、日比谷公園のあたりは松平肥前守(鍋島)、松平大善太夫(毛利)の上屋敷であり、伊達藩上屋敷は芝、浜御殿(現浜離宮)の前にあった。
正宗といえば、家康に、自分なら江戸城を北東から攻めると言ったとか。本郷台地を押さえ南端(駿河台)にカルバリン砲を据えれば本丸はすぐそばだ。それが関係したか伊達家によって駿河台掘削、神田川の川筋替えが行われ、江戸城が拡大した。
すなわちそれ以前の築城時は日本橋川を唯一の守りとする薄い大手前が一番外側だったわけで、あまりきれいな蝸牛の形ではない。
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