1月12日、田辺三菱製薬戸田事業所の解体を見に来て、ついでに戸田漕艇場にまわった。
ここに通ったのは1977年から80年まで。
そのご新幹線、埼京線が通り区画整理があって周辺はだいぶ変わった。
しかし漕艇場と周辺(戸田公園)はほぼ昔のまま。
2021-01-12 10:38
戦前、幻の東京オリンピック(1940)のボート競技のために、千葉印旛沼、横浜鶴見川との会場誘致合戦を制した北足立郡戸田村に、荒川の北に並行して池(ポンド)が掘られた。
オリンピックは中止になったが、戦後は競艇が始まった。(このあたりのことはかつて、戸田市郷土博物館に写真パネルが展示されていた)
さらに1964年東京大会に合わせ、幅も70mから90mに広げられ、今の形になる。
目を右に転ずれば
池の北側にはNTT東日本、共立女子大、東京医科歯科大、立教、明治安田生命、東京海上、三菱、東工大、日大、東京外語大、日本医大、慶応、早稲田の艇庫があるが、陸上からのアクセスは公園外の一般道路になる。池側は艇を出し入れするプライベートビーチのようになっていて、ここからは見に行けない。
10:39
池の南側は大学艇庫が並ぶ。一番手前は東大。
敷地に入ってすぐ、池に向かって右(北)は埼玉県の戸田艇庫
新しくなっている。
池の東端、正面に堂々と池を睥睨するは国立戸田艇庫。
正式には国立スポーツ科学センター戸田艇庫という。
しかし私が学生の頃は「国立競技場戸田艇庫」と書いてあった。
国立競技場というのは神宮外苑の運動場ではなく、特殊法人の名前でもあった。
(特殊法人)国立競技場(1958)と日本学校健康会(1982)が1986年に統合され、日本体育・学校健康センターとなり、その下部組織として国立スポーツ科学センターがある。
1977年か78年、国立競技場戸田艇庫の船を借りたことがある。
といっても対校(対抗ではない)クルーを出す全学のボート部ではなく、薬学部のボート部である。
これについてはあとで書く。
池のほとりを歩いていく。
艇庫群の東に旭が丘会館という地域公民館が新しくできていた。
各艇庫の一番手前、東大は増築されさらに大きくなっていた。
西側は学習院、法政、東京トヨペット、東北大と続く。
各艇庫が終わると公園事務所がある。
2021-01-12
戸田公園事務所
懐かしい、と思ったが昔の写真を見たらどうも事務所は立て直したようだ。
1980-11-07
薬学部水上運動会
この年、生薬学教室はナックルフォアを4チーム出した。
私が総監督。戸田で10月に一度しっかり特訓し、1軍(ショーケン号)が3位入賞した。二軍(がんばれ博士号)、三軍(みつぐ丸)は予選敗退したが女子チーム(千草号?)は女子の部で優勝した。
一軍、三軍、女子の艇名は4年生の3人、北川祥賢、小林貢、佐々木千草氏にちなむ。二軍は学位取得で苦労していた留学生と博士課程の人々すなわち山本芳邦、木内文之、成忠基氏らの船だった。
1980
賞状を手渡すのは野島庄七学部長、手前に控える短パンはこの年の薬学ボート部の主将だった長谷部也寸志
以下、敬称略で後ろに
今村亨、寺島正純、森和彦、牧島房夫、田仲広明、小田島和徳、諸氏が見える。
明かに公園事務所は建て替わっていた。
古川賀洋子氏は姫路出身、テニスがうまくて谷中の隣、千駄木に住んでいた。
一番左は堀越正美氏に似ているが不明。左から順に合田広幸、佐々木千草、飯島洋、私、小林貢(隠れている)、國枝卓(コート)、渋谷雅明の諸氏
1980
がんばれ博士号に乗り込んだ山本芳邦、呉金濱氏。
右の頭はショーケンと結婚された田村有子さん。
左の胴は池田万里子さんだろう。
2021年に戻る。
2021-01-12
40年後、人は誰でも年を取る。
池は観覧席の向こうもずっと続く
2021
戸田公園の敷地は、ざっと東西2.4km 水路は2.3 km
西の方は戸田競艇で使っていて、その仕切りまで1.8 km
企業や大学などの親睦レガッタは500mだが、国際大会、全日本選手権などのエイトは2000mなので、その時は仕切りを除いて、競艇場からスタートする。40年前、仕切りは浮いている柵だったが、今は橋になっているようだ。
ちなみに隅田川の早慶レガッタは3750mである。
向こうまで行く元気がなかったので大学の艇庫を見ながら戻ることにした
公園事務所の側から成城、成蹊。丸い穴の開いた建物は一橋大。
明治20年(1887)東大が隅田川での学内レガッタに第一高等学校、 高等商業学校(一橋大の前身)、高等師範(筑波大の前身)を招待した。 東商戦の源流はここにある。
戦後、一橋大と改称したその年の対校レガッタを第1回とし、2019年で第71回。(第8回大会はメルボルンオリンピックのため開催せず)。花形の対校エイトは東大が通算42勝28敗で大きく勝ち越しているが、直近は一橋大が11連勝。
やはり伝統校一橋の艇庫は大きい。
明治大学、東京経済大と続く
東京経済大(右)の東は筑波大。
筑波大(東京教育大)の前身の一つ、体操伝習所が明治16年(1883)隅田川で東大と競漕したのが日本初の対抗レガッタとされる。直接の前身、高等師範も明治20年に東大と競漕している。
ちなみに大正9年(1920)に始まった、筑波大付属高校と開成の対抗戦は今日まで最も途切れず続く定期レガッタといわれる。
ボートというのは他のスポーツと違い、歴史がはっきり残っていて面白い。
はるばる仙台から漕ぎに来るのだろうか。
ちょうど学生が二人、整備していたので聞けば、本拠地は秋保温泉近くの釜房ダムらしい。
この艇庫は、日本選手権のような戸田でやるレースの時に使う。
でも慣れている艇のほうがいいのではないかと聞くと、今のエイトは途中で分離でき運搬できるという。今は木造でなく、カーボンファイバーなどでさらに軽くなったらしい。
艇の名前はRoma(エイト)、陸奥(エイト)、Chica、海邦(フォア)など。
Romaというのは1960年のオリンピック出場を記念したものらしい。
東北大学漕艇部は旧制二高端艇部から数え、創部120年の伝統を誇る。
ボートの華、エイトでは1978年全日本選手権で優勝。全日本大学選手権(インカレ)は1975年、1978年~1980年、1995年の計5回優勝している。
コロナで競技会はなくても整備などで仕事はあるらしく、前日上京したという。
話してくれたのは工学部金属学科の学生。本多光太郎の後輩だね、というと嬉しそうだった。今やっているテーマは鉄鉱石を溶解するのにコークスでなく水素を使うという研究。文武両道という言葉を思い出した。
いまのボート競技に関する丁寧な説明に感謝し、老人が若者を激励して別れた。
東北大のファンになったことは言うまでもない。
とってもいい顔してましたねぇ、と歩きながらいうと一緒にいた大塚さんも同意してくれた。
学習院は新しくなっていた。
40年前、モーターボートみたいな船が道路側に置いてあった気がする。
最後は東大
登攀縄が下がり、前庭は舗装されていた。
ここで77年、78年、2か月ほど合宿した。
実験終わって艇庫に来て、朝暗いうちに起きて漕ぎ、10時ころ戸田を出発、講義は自由参加だったので午後からの学生実習だけ出た。
いろいろ思い出して長くなるので別ブログにする。
(続く)
20210117 田辺製薬跡地、戸田ボート場の周りを歩く
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