2024年6月1日土曜日

花の咲かないリンゴを切る決断

家にリンゴの木がある。

20年以上育てているが実が生らないどころか花さえ咲いたことがない。
11年前の引っ越しのときも一緒に持ってきたのはなぜか。
2024₋05₋21
これは34才になる息子が昔、種から芽を出したもの。
彼は小学生の夏休みの自由研究で、スーパーで買ってきたあらゆる野菜、果物の種を蒔いて発芽するかどうか調べた。大人も結果を知りたい良い研究だったが、学校では大して評価されなかった。
リンゴは夏休みに種をまくとは考えにくいから、その流れで秋に調べたのかもしれない。同時にブドウも発芽したことを覚えている。
息子は生ごみからいくらでも発芽するグレープフルーツに期待して実が生ったら無人販売に出す、とか言って、私が地面に移したリンゴのことはすっかり忘れた。

リンゴはひょろひょろ伸びたが花は咲かず、長野の父が家に来たとき枝が張るよう先端を剪定してくれた。しかし、もともと庭の端の日当たりの悪いところにあったから大きくならなかった。

2013年4月、埼玉から千駄木に引っ越したとき、このリンゴも持ってきた。
まだ可愛らしかった小学生の息子と、亡くなった父を思い出すからだ。
しかし無造作に引っこ抜いてきたから枯れてしまった。そのまま放置していると下から芽が出てきて、育ったのがこれだ。
生垣の脇の、またも日影であったため育たず、花も咲かなかった。
息子はもちろん関心なく(存在すら知らず)数年前結婚して家を出た。

このリンゴを育てていた理由は父と息子の記憶につながることと、リンゴそのものが私にとって特別だったからだ。

専業農家の長男として生まれた。
信州中野は夜間瀬川の扇状地で、集落は伏流水が湧き出るところ、つまり等高線上に並び、集落より下は水田、上は古くは桑畑、1950年代からは果樹園となった。
私が物心ついたとき、養蚕はすでにやめ(物置にはカイコ棚など資材がまだ残っていた)、畑の多くはリンゴだった。

当時のリンゴは紅玉と国光が主力。他にお盆リンゴと言った祝(イワイ)、旭。漬物にも入れた黄色のインドもあった。
梯子が届かず取り残された紅玉が青い空に映えている。
大人は無理でも子供は細い枝まで登って、それをもぎ取りかぶりつく。普通より大きく熟した紅玉は蜜が乗って果汁が口いっぱいに広がった。
1976年3月、剪定する父

リンゴの木も寿命があるし、新しい品種がどんどん出てくる。国光、紅玉と入れ替わるように出てきたのは尻が尖ったスターキングと黄色いゴールデンデリシャスだった。スターは渋みがあってあんまり好きではなかったが、独特な酸味のゴールは袋をかけずに日に当てると(ジョナゴール)甘みが増して旨かった。
次の世代は「ふじ」。これは果汁が多く保存がきき、日持ちが良くて春先でも旨かった。
このころから水田を畑に変え、メインは巨峰だったが、リンゴの矮化栽培もはじめた。そして、元のリンゴ畑は桃を作り始めた。

ふじと同じころ出てきた「世界一」、「むつ」は家では作らず近所からもらって食べた。
あかね、王林、つがる、は上京してから送ってもらっただけだから何の思い出もない。
ましてやシナノスイーツ、シナノゴールドなどは、ただ旨いというだけで、有難味は何もない。
2024₋05₋21
赤い紐は今年真っすぐに矯正しようとしたから。

リンゴは食べたことより農作業のほうが記憶に深い。
当時は子どもも手伝うのが当たり前だった。
春は一斉に花が咲くが、花摘みがある。花は集団で何群もつく。小さな枝に一群だけのこるように、ほかの花群を摘んでいく。残した花群もその後、実が膨らんでくると中央の1つだけ残して残りの実をとる。摘花と摘果とは同じ発音となるから前者は花摘みといった。

一番いやだったのは消毒のときのホース持ち。
我が家は庭先から上の畑までパイプラインが引いてあり、大きな3つのセメント製の桶で消毒液を作ってエンジンポンプで畑まで送っていた。消毒薬が沈殿しないように竿でかき回すのは祖母の役目だった。畑では父が噴霧竿をもってリンゴの木にかけていく。
当時はリンゴの木の間にネギなど野菜が植わっていて、ホースがそれらをなぎ倒さないように、ホースを高く持って乗り越えさせなくてはいけない。若かったころの父はせっかちだったのか、「ぼやぼやするな」とよく怒られた。ホースは消毒液で濡れて泥だらけ。子供だった私は必死にホースを抱え、全身泥まみれになった。いつもは穏やかな父がなぜ、あんなにせっかちだったのか、ひょっとしたら噴霧竿には止水栓がなく、消毒液が流れっぱなしで、素早くやらないと液が途中でなくなる恐れがあったのかもしれない。まあ、あったとしても彼は噴霧のほうに集中しながらあちこち動いているから、ホースがしばしば引っかかったら仕事にならない。
中学になったころは人が乗って運転するSS(Speed Sprayer)という消毒用自動車が導入され、ホースもちから解放された。

ゴールなどは実が大きくなると袋掛け。袋はスポーツ新聞から作ったものが多く、小さな紙片の記事の一部分から全体を想像した。その野球の記事を読みながら、ピッチャーの真似をして落ちたリンゴの実を離れた木の幹を狙って投げて遊んだりした。

さらに実が大きくなるときれいに着色するように葉を摘んで日光を当てる。
着色と言えば、お盆のころ未熟なものをとってきて、葭簀のある台に並べる作業もあった。水をかけて冷やしながら日光に当てることで、赤くして着色するためだった。
1985年8月
左上:母の実家の下を流れる千曲川。
左下:りんごの人工着色
右上:りんごの古木
右下:区画整理される前のリンゴ畑
リンゴは木も役に立った。
1991年まで我が家の風呂は薪だったが、冬に剪定した枝は風呂焚きに使った。また小学生のころ、えのきだけ栽培を始める前の2,3年は信州シメジ(ヒラタケ)を栽培したが、その栽培床はリンゴの幹を輪切りにしたものを地面に埋め、切り藁で覆ったものだった。

収穫したリンゴを入れて運んだ木製の箱は、(ブドウ、モモに切り替えて)栽培を縮小してからも農作業で使い続けた。箱は大きく重かったが、えのき栽培でおがくずを入れて運んだり、農産物を入れる容器に使った。軽いプラスチック製のものに置き換わったのは私が上京してからだ。
1976年3月、えのき栽培で使うリンゴ箱を運ぶ祖父。

母は木のリンゴ箱に包み紙だったか千代紙だったか貼って本棚を作ってくれた。今のカラーボックスと同じである。このようにリンゴは生活すべてに入り込んでいた。

1975年3月末、長野を離れ大学の寮に入ったとき、布団などの荷物と一緒に父はフジを1箱置いて行ってくれた。

つまりリンゴは私の成長期と常に一緒にあった。
そして今千駄木にある木には息子と父の記憶もある。全く花も咲かず成長しなかったにもかかわらず20年以上切れなかった理由はここにある。

しかし、この日、ついに引き抜いた。
20年以上このままだったということは私が死ぬまでこのままだろう。またリンゴは柑橘類と違い、実を生らすには受粉樹が必要なものが多いことも、抜こうと決断した理由である。

ところが、
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私はいったいどのくらい未練がましいのだろう。
抜くことは抜いた。
しかし、そのあと急いで鉢を探してきて、もう少し生かすことにした。
鉢植えにしたが、根が大分切れてしまったから枯れるかもしれない。
それならそれで諦めがつく。
2024₋05₋21
私の幼少期にリンゴの存在はあまりに大きく、自分の性格にも大きな影響を与えた気がする。

父は2010年に、母は今年亡くなり、息子はまったく関心なく数年前に家を出た。
この鉢を見続けるのは私だけだ。


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