2024年9月23日月曜日

山形2 米沢城の縄張りとウコギの生垣

9月19日早朝、山形の米沢に来た。
西米沢駅近くの上杉家廟所を柵の外から覗いてから、米沢城まで歩いてきた。
(前のブログ)
濠で囲まれているのは本丸跡で、全部が上杉神社になっている。
6:46
米沢城址は、尾根の先でもないのに松が岬公園というようだ。長井氏が築城したとき松が岬城と称したらしい。
上杉家墓所から歩いてきて北西の角から西参道で濠を渡り、東参道で二の丸に出たことになる。

本丸は分かるが、二の丸、三の丸はどうだったのだろう?
上杉神社の境内に、江戸時代の米沢城の鳥観図があったが、初めての町だからどこがどこだかよく分からない。
6:43
きれいな輪郭式平城である。
西の掘立川と東の松川で大体の方角が分かる。
左上が西だ。
右下の松川を渡ってまっすぐ東へ行けば米沢駅に行く。

6:45
本丸から東参道の橋を外に出た。
濠の向こうに見えるのは旧上杉伯爵邸だろうか。
6:47 伝国の杜
(置賜文化ホールと米沢市上杉博物館の複合施設)

輪郭式の本丸から出たのだから、間違いなくここは二の丸。
広い芝生の上を犬を連れた人が歩いていた。

伝国の杜という施設名は全国から公募されたらしい。「伝国」は9代藩主上杉治憲(鷹山)が家督を譲る際に、藩主の心得を3か条で記した「伝国の辞」にちなんだものというが、たいていの人は伝国(でんこく)と聞いても分からない。外国語なら意味不明でもいいが、日本語なら意味が分かるものがいいな。
6:52
唯一残っている本丸周囲の堀に沿って南に行けば上杉伯爵邸がある。
輪郭式だからどこまで歩いても当然二の丸。
上杉伯爵。大名の爵位基準は15万石以上で侯爵だが、これは表高といった米穀の生産量ではなく、税収(年貢など)をあらわす現米(現高、蔵米)を指している。明治2年政府が過去5年間の歳入を出せという沙汰を出し、各藩が5年平均の租税収入を申告した。前田64万石、島津31、毛利23といった数字で、15万石以上となる大名11家を「大藩」とし、これが爵位を決めるときに転用された。だから、表高15万石の上杉が侯爵にならず伯爵となったのは、よく言われる奥羽列藩同盟で薩長に抵抗したからというわけではない。
6:53
上杉邸は14代当主(観光案内などでは謙信を初代とするが、米沢藩主としては13代目、山内上杉家として29代目)の、最後の藩主、上杉茂憲の本宅として建てられた。

いまは庭を見ながら米沢牛が食べられるレストランになっている。
米沢牛膳6000円、しゃぶしゃぶ7000円、ステーキ8000円とあった。9代鷹山が濠で飼わせたという米沢鯉の甘煮は単品で900円。
6:55
伯爵本邸というと暮らしの一端も見たくなり、裏の台所のほうまでまわってみた。
早朝だから誰もいない。

6:56
伯爵邸は明治29年に建てられたが、大正8年の米沢大火で焼失。
大正14年、米沢出身の建築家・中條精一郎設計の総ヒノキ入母屋造りで再建された。
中條(ちゅうじょう)は、千駄木に居を構え、長女が作家宮本百合子である。今は屋敷の門塀の一部だけ残り、千駄木菜園のお散歩カテゴリーにも出てきている。

ちなみに同じ東大建築を出た米沢出身の伊東忠太は藩医の子として1867年、中條は藩士(安積疎水を開いた中條政恒)の子として1868年、1年違いで生まれている。

上杉記念館を出て、伝国の杜の建物に沿って正面にまわってみた。
6:59
二の丸のここには米沢工業高校があった。それが新築移転し跡地に2001年9月、山形県の置賜文化ホールと米沢市が整備した米沢市上杉博物館が合築された。

博物館には信長が謙信に送った有名な国宝「上杉本洛中洛外図屏風」(狩野永徳)がある。
以前は、謙信が毎日見つめていた毘沙門天画像、直江兼続の「愛」が有名な具足、鷹山の「伝国の辞」などとともに、神社境内の稽照殿という宝物館にあったのだが、市立博物館ができて移動したのだろうか。
常設展は上杉関連だけでなく、置賜地方の歴史文化を伝える。見どころが多そうだ。

文化ホールには可動式能舞台もある。城址の松が岬公園にこういうものがあることで、人口 7万7千人ながら、10倍以上の人口を擁する政令指定都市のさいたま、相模原、千葉以上の風格がある。

雨脚が強まってきた。
伝国の杜の東の県道を松ヶ岬公園にそって北へ歩く。
7:02
米沢城史苑
松ヶ岬公園の東端にあり、園内の地図を見た時はその字面から、歴史資料館の一つかと思った。しかし、お土産、カフェ、レストランのある観光物産館であった。「苑」とあるから焼肉もあるかな。上杉記念館(伯爵邸)での食事は予約が大変そうだが、ここはいつでも入れそうだ。

二の丸のまわりの堀は、この県道あたりのような気がする。
つまり道のこちら側が三の丸。

この道をまっすぐ北へ行けば興譲館跡、興譲小学校などがあるが、有名な米沢興譲館高校はどこにあるのだろう? 雨の中地図を開いても見つからない。

松が岬公園の角で右折し、東の米沢駅のほうに向かう。
米沢の信号機には交差点名が書いてない。

駅に向かってひたすら歩いていく。
途中、三の丸の外堀があるはずだが何もない。

ふと、右手に生垣があった。
裏口のような小さな木の門はあるが、中は空き地になっている。
7:08
生垣はウコギだろうか?
上杉家は関ヶ原のあと会津120万石から米沢30万石に減封され、さらに1664年3代藩主綱勝が、嫡子、養子もないまま急逝した。そこで綱勝の正室の父に当たる会津藩主保科正之が奔走し、綱勝の妹富子と吉良義央(赤穂浪士に切られた上野介)との間に生まれていた当時2歳の綱憲を末期養子とすることを幕閣に認められ、お家取りつぶしを免れた。
しかしこの件で信夫郡、伊達郡(ともに今の福島県)などの15万石を失い、置賜郡15万石だけになった。石高が4分の1になっても家臣はほとんど減らず、窮乏を極めていたのに、また半減し8分の1。さらに貧乏になったわけだ。

藩士たちの屋敷は石垣も長屋門もなく、練塀の代わりとして生垣をめぐらした。それもウコギ(五加木)というパッとしない低木だった。ウコギは美観のためではなく新芽が食べられるからだ。摘めばまた芽が出る。食べるなら白菜とか大根のほうが良いが、これらは季節ものだし、第一、垣にならない。

ウコギを奨励したのは直江兼続とも9代藩主の上杉鷹山(治憲、1751₋1822)ともいう。
直江については前のブログで書いた。
上杉鷹山は40年ほど前、童門冬二の同名小説(1983)がベストセラーになり一気に有名になった。彼は日向高鍋藩秋月家の生まれで養子であるが、生母が秋月藩黒田氏に嫁いだ上杉綱憲の孫娘なので全く上杉家と無縁というわけではない。

鷹山は質素倹約をすすめ換金作物の栽培も奨励した。
しかし、どうしても長州毛利家と比較してしまう。
毛利家も関ヶ原のあと、中国地方120万石から防長37万石に押し込められた。上杉家と同様、少しも家臣が減らなかったから江戸時代初期の100年ほどは貧窮を極めた。しかし、徳川への恨みのエネルギーを溜めながら、彼らは瀬戸内海に向かって干拓をはじめ、幕末の長州藩は100万石ほどの米がとれたという。鷹山のような倹約の有名人は出なかったが、北前船の利益をおさえ、産業を興し、倒幕するほど豊かな藩となった。

同じ出発点ながら瀬戸内海に面した藩と、雪深い米沢に閉じ込められた藩のちがいであろう。

しかし本当にウコギだろうか?
話にはよく出るが、実は初めて見る。
ちょうど犬を抱えて通りかかった人がいたので思い切って聞いてみた。
やはりウコギだという。

小さな木の門扉だけ残した空き地が気になって、ここは藩士の屋敷だったのでしょうかと尋ねると、意外な返事が返って来た。
7:08
ちょうどここには堀があって、西側が三の丸で武家地、ウコギの垣根があった東側は町人町だったから武家ではないだろうというのである。
すなわち、偶然にも三の丸の範囲が分かった。

彼は素朴な米沢弁でいろいろ教えてくださった。
7:10
濠の外側は武者道という細道が通っていた。
町人は通ることができず、最初は堀の管理道路であったが、次第に武士たちの生活道路になった。
三の丸の武士たちが町人街に行くときは刀を差さず、笠で顔を隠し、この細道を忍んで出入りしたという。また、原方衆という、普段は農作業をし、臨時のときに動員される下級武士がいて、彼らも武士の誇りを持ちながら、こっそり通ったとされる。

犬を抱えた男性は、親切にもさらに、復元された三の丸の堀まで私を案内してくださった。
7:10
西條天満公園に復元された(保存された?)三の丸の外堀と土塁。
7:11
米沢城は戦国末期の築城でありながら、本丸のまわりすら当時はやりの石垣ではなく古風な土塁であった。
濠をほった土をそのまま搔きあげて踏み固めただけである。その分、明治になって埋め立てるのも楽だった。
7:13
木の橋を渡って公園に入った。
広くて何もない。
西條天満公園というのは、上級家臣だった西條家の屋敷跡で、屋敷内(土塁の上)に天満神社がまつってあった。神社は平成22年に移転した。

毎日散歩されている男性は、公園内もよく知っていて、中央の休憩テーブルの米沢城絵図のところに連れて行ってくださった。
7:15 上が北、東が駅。
現在地の公園が赤枠で囲んであり、西条の文字が読める。
三の丸の外、町人地の外にも防御のため寺院がびっしり並べられた。
7:26
平日の早朝だからか、雨だからか、だれもいない。
犬を抱いた彼に感謝のお礼を言って別れた。

彼の菩提寺は東源寺といい絵図の寺町にあった。調べたら五百羅漢で有名。信州飯山から上杉家とともに移転してきたという。北信濃は上杉の勢力圏だったから、寺院や市河氏、高梨氏などの土豪も会津、米沢と移転した。信州中野の土豪だった高梨の文字を絵図の武家地に探せばよかったと思ったが公園に戻る気は起きなかった。

さらに駅を目指して歩く。
松川(最上川)手前の交差点に「アイデアの泉神社」というのがあった。
7:38
しかし社殿、鳥居などはない。
御祭神は水神様で、「世界一水水(みずみず)しい  ご自由にお飲みください」という。
見ざる聞かざるの三猿ならぬ積極的な四猿(見る猿・聞く猿・話す猿・考える猿)が蛇口の上にいて、私も飲んでみた。
ユーモアとしては面白いが、誰もが知っている歴史の物語がないため、観光スポットにはならない。

水を飲んで米沢興譲館(高校)はどこにあるのだろうと考えた。もう一度地図を見るがない。まさか名前が変わったんじゃないだろうな。

学問所は1618年に開設されており、この時から数えて2024年で創立406年。
藩校「興譲館」となったのが1776年で創立238周年。
旧制中学となったのが明治19年(1886)で創立128年である。
公立高校としては日本最古と言われ、
伊東忠太の他に、明治の政治家・平田東助、海軍大将・山下源太郎、機動艦隊司令長官・南雲忠一、財界人・池田成彬、憲兵大尉・甘粕正彦など歴史人物も多い。

スマホを使うと電池がなくなりそうで、興譲館の所在を調べなかった。
帰宅後、地図の外、南米沢駅のさらに南にあることがわかった。1987年、お城の北方、いまの米沢市すこやかセンターの場所から移転した。

川を渡る。
7:43
絵図では松川とあったが、最上川である。
置賜の水を集めて、さらに広く開けた村山地方、最上地方でも水を増やし庄内平野に流れ込むはずだが、まだ小さい。
これも北の掘立川とともに4番目の濠をなしていたのかもしれない。
7:51
米沢駅到着
駅舎は1993年、山形ミニ新幹線の開業に合わせ建てられた。
米沢高等工業学校本館(現・山形大学米沢キャンパス)を模したという。

これから県庁所在地の山形へ向かう。

(つづく)

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