9月19日、夜行バスで米沢に来て、置賜盆地、村山盆地の景色を見ながら奥羽本線で北上、新庄まで来た。
ここは奥羽本線が南北に、陸羽西線と陸羽東線が東西に走る。さらには国道13号と国道47号が交差し、交通の要衝である。そして山形県を4つに分けた時の1つ、最上地方の中心である。しかしながら東北地方以外の人にはあまり知られていないのではないか?
新庄は私にとっては山形全県13市のうち、知らなかった2つの市のうちの一つであった。(あと一つは南陽市)
昨年文京シビックホールで行われた藩校サミットに新庄藩があったが、山形のどこにあるのか知らなかった。
駅は新しい。
ここも山形新幹線がきたときに建て替えたのだろう。
11:35
新庄駅
とりあえず、駅からまっすぐ、新庄城にいく。
新庄藩6万石は成立から明治までずっと戸沢氏が治めた。
11:36
駅前通り。
出羽の隔離された小盆地ということで城下町の雰囲気を期待したのだが、それらしさがまったくない。道路も広い。
この、城下町らしさがないというのは、戊辰戦争と関係あるか?
新庄藩は、いったんは奥羽越列藩同盟に参加したが突然脱退し、秋田藩とともに西軍についた。慶応4年7月、裏切りに激怒した庄内藩の攻撃を受けて新庄城は陥落、城下町は大半が消失した。
恐らく復興もされていない明治11年、米沢、置賜を東洋のアルカディア(桃源郷)と記したイギリス人旅行作家イザベラ・バードは新庄を「みすぼらしい町」と見たらしい。
(もっとも後で江戸時代の絵図を見たら、このあたりは田畑で、城下はもう少し先の最上公園のほうだった)
11:41
それにしても閉店された店舗が目立つ。
鰹節・今田商店、長沢陶器店など。
広い道路に、電柱を地中に埋めたことで、さらに何もないという印象の町になった。
11:43
大黒屋
看板はLadys Total Supporter。
lady の複数はladiesだからladysはない。では「女性の」という意味でlady'sのつもりだったかというと、それも複数形のladies' (sは省く)のほうが良い。ハイソでない普通の婦人服ではむしろwomen'sのほうが良いらしい。ま、カタカナ語を英語っぽく書いたのだろう。
since 1901とあるが、ここもまわりと同じように閉店したようだ。
言っておくが、ここは駅前通りと本町商店街が交差する町一番の場所なのである。
駅からまっすぐ新庄城址に向かってずんずん歩いていく。
駅前通りはこのあたり中央通り商店街というが、商店らしき店も人も見当たらない。
11:48
通りに何本もある看板から、ここは「こぶとり爺さま通り」というらしい。
新庄を中心とする最上地方は民話の宝庫とされ、それを生かそうと通りの名前にした。
他に「かわうそど狐通り」「笠地蔵どおり」「金の茶釜通り」「鴨とり源五郎通り」がある。
笠地蔵やこぶとり爺さんは新庄・最上地方の発祥ではなく、全国各地に伝わっている。民話がここで作られたというより、つい最近まで多く語られていたということだろう。
11:51
通り・商店街に沿って何本、何十本も看板が立っていて、民話の一部分が少しずつ書いてある。
地方都市にありがちな商店街の空洞化を食い止めようということなのだろうが、空回りしている気がしないでもない。
藩主は戸沢氏。
築いたのは土木人夫と大工さんだが、政盛の時代ということだ。
秀吉の死後、戸沢政盛は徳川の重臣・鳥居元忠の娘と縁戚を結び、徳川方へ急速に接近し、関ヶ原では最上氏とともに東軍に属した。しかし消極的な行動を咎められ、戦後、常陸国松岡(いまの高萩市)へ減転封された。
それでも鳥居忠政の次男を婿養子に迎えるなど、鳥居氏そして幕閣との結びつきを深めた。
1622年、現在の山形県全土(上杉の置賜地方を除く)と秋田県の一部57万石を版図とした最上氏が改易されると、鳥居忠政が22万石で山形城に入った。周りの佐竹、伊達、米沢の抑えということもあったのだろう、最上氏旧領は庄内(酒井)、左沢(酒井)、上ノ山(能見松平)と、鳥居氏の縁戚で占められた。戸沢政盛も忠正の縁戚ということで2万石を加増され旧領近くの最上郡全域と村山郡の一部を与えられ、新庄藩6万石となった。以後、明治まで続く。
11:53
本丸跡には城を思わせるものは何もなく、戸澤神社がメインで新荘護國神社、稲荷神社、天満神社もある。
11:55
裏に回っても城らしいものは全くなく、まさに神社の裏である。
なおも進むと濠の跡のようなものに出た。
11:56
本丸の北の堀跡
11:59
新庄城絵図
この絵だけでは縄張りが分からない。
幸いネットに縄張り図があった。
元禄3年新庄城修復願付図(新庄デジタルアーカイブから)
新庄城は、本丸の南西側(正門を入って左側)に出丸のように小さな二の丸が並列状に置かれ、その外側を三の丸が囲む平城であったようだ。
12:04
新庄ふるさと歴史センタ―
この前の道が外堀跡で、センターの敷地は三の丸の端にあたる。
しかし休館。7月25日の豪雨災害から2か月もたつのに電気系統が復旧していないという。
ひょっとして、閉店の商店が多かったのは豪雨災害の影響か?とも思った。
12:06
正面玄関から中をのぞいたが人の気配がなかった。
このあたりも道路が広く、武家屋敷らしき家は見つからない。
人もいないし、見るものもないので駅に戻る。
12:16
日本で一番小さなセントラルホテル
セントラルホテルというのは本当に数えきれないほどあるようだ。
グーグル検索すればいくらでも出てくるが、総数が分からない。
新庄のこのホテルに聞けばわかるだろうか?
ところで新庄は商店がなくともビジネスホテルが割とある。
陸羽線、奥羽線の交差する最上郡の中心都市で、県の内外からの出張者が多いのだろうか。
駅に着いた。
これから鶴岡に向かう。
本来なら最上川沿いの陸羽西線で行くのだが、新庄酒田道路(自動車専用)の建設工事のため、2022年5月から2024年度中までの予定で全線が営業休止、バス代行輸送となっている。こんなに長い期間の代行輸送なんてあるのだろうか。
バスの発車時刻まで時間があるので駅舎の隣の「ゆめりあ」に入ってみた。
12:25
ゆめりあの正式名称は最上広域交流センターである。
入ってみると、まず「花と緑の交流広場」。ガラス張り、無料のテーブルと椅子のある休憩スペースが広い。ステージまである。レストラン、物産館(土産物店)、さらに中庭の向こうは鉄道ギャラリーがあるようだが行かなかった。
駅側には「もがみ情報案内センター」がある。
ここは新庄に到着したとき入口のラックから地図を1枚もらっただけだったので、今更ながらじっくり椅子に座って新庄だけでなく真室川、舟形、鮭川など最上郡の地図や観光パンフレットを眺めた。
陸羽西線のバスは13:00出発なので大分時間があり、情報案内センター(職員3人)の窓口にいた女性に気になっていたことを聞いてみた。
「商店がほとんど閉まっているのですが、歴史センターと同じように7月の山形豪雨の影響ですかね?」
「(笑いながら)いえ、関係ありません。もともと新庄もどんどん人が減っていますから。でもコロナで大分閉まりましたね。」
調べれば新庄市は昭和40年代初頭には人口49,000人を数えたが、戦前の軍馬生産、養蚕はなくなり戦後の木材加工、農業も厳しく、人口は減り続けた。
(私にとっては最近である)2000年には4万2000人あったものが、2020年には3万4000人になっている。
山形新幹線の誘致、「ゆめりあ」建設、昔ばなし通りの設置など盛り上げに努力はしているが、あまり効果がないようだ。
昔の城下と今の市街が重ねてある地図があるかどうか尋ねたら、江戸時代の絵図と、それを挟めば現在の市街地のどこに当たるか分かるクリアフォルダーを奥から出してきてくださった。彼女は50代くらいか、郷土愛が強く、知識もある有能な職員に見えた。
「改札口のまえの山車をご覧になりましたか? 新庄まつりで何台も出るんですよ。市外からもいっぱい見物客が来るんです。来年は戸沢氏入部400年というので茨城の高萩と合同で盛大にやるんですよ。ぜひ来てください」
しかし来年どころか、縁もゆかりもない新庄に来る機会は二度とないだろう。
今年初めて来たのだって気まぐれの偶然だし。
と思いながら代行バスの乗り場に向かった。
(続く)
20241002 山形5 奥羽本線。天童、東根など
20240930 山形4 霞城と運動公園、最上氏
20240926 山形3 各市町村の人口と高畠・南陽・上ノ山
20240923 山形2 米沢城の縄張りとウコギの生垣
20240922 山形1 米沢、上杉家廟所と直江兼続ら3人の城主
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