2024年10月24日木曜日

山形11 酒田の山居倉庫と米券、大地主・本間家

9月19日、山形県に来た。早朝から米沢、山形、新庄、最上峡、鶴岡を見て、今回の最終地、酒田に向かう。

羽越線・酒田ゆきの列車は16:23に鶴岡を発車。
32分、510円。帰宅時の高校生たちと一緒になった。

16:30藤島
16:35西袋
16:39余目
16:43北余目
16:47砂越
16:50東酒田
16:55酒田、終点

列車は庄内平野を北に向かい、酒田市域に入って砂越(さごし)駅を過ぎると西に曲がる。
すると右(北)のかなたに独立峰が見えた。
16:48
秋田・山形にまたがる鳥海山。

1992年4月、夜行列車で目覚めたとき、冠雪に朝日が当たる大きな山をみた。神々しいほどに輝いていた。実際、古代からこの山は信仰の対象となっていて、頂上には大物忌神社という古社がある。
江戸時代、南北ふもとの信者、修験者などの頂上をめぐる争いが庄内藩(14万石)、矢島藩(1万石)を巻き込んだ。その結果、幕府の裁定で山頂は、藩の力関係からか庄内藩領となり、今も山形県である。
山頂が富士山本宮浅間大社(静岡)の所有でも、県境をあえて決めない富士山とは違う。

やがて列車は終点の酒田についた。
16:56
酒田駅ホームに北前船の模型があった。

庄内は豊かである。
広い水田地帯に加え、北前船により酒田には上方の文化が入り、また鶴岡藩の酒井公は徳川譜代の筆頭だったから江戸文化も入っただろう。

また、海に面していることもあり、庄内は米沢、山形、天童などの最上川流域の内陸盆地とは同じ県とは思えない。
さて、旅の最後、酒田では何をみるか。
駅前で考えるがどこに何があるか分からない。
17:00
JR酒田駅
周りに何もなく地方空港のようにすっきりしている。
駅舎は1960年建築らしく、1階に黒川屋という和菓子(土産)店があるだけで、飲食店などはない。二階は駅の事務室だろうか?

あまり利用者はいないように見える。2023年度の1日平均乗車人員は867人。実質、430人である。山形、鶴岡に次ぐ県内3位の9万5千人を擁するのに、みな車に乗っているのだろうか。

駅の利用者がいないことを反映しているか、駅前通りにほとんど店がない。しかし、帰宅後
グーグルストリートビューでこのあたりを2012年11月まで遡ると、なんと駅前通りは、歩道に屋根がついた立派な商店街だった。この10年、20年で寂れたことになる。実際、2000年の駅利用者は今の2.5倍の1日2213人だった。

駅前の角にはジャスコ酒田駅前店があったが、1997年売り上げ不振で撤退した。跡地の再開発は、事業会社の倒産や、いくたびもの計画見直しなど難航し、その間、土地は長らく駐車場などであったが、ようやく2022年7月、酒田駅前交流拠点施設ミライニがオープンした。
観光情報案内所が入っているようなので行ってみた。
17:01
酒田駅前交流拠点施設「ミライニ」

入って驚いたことに、市立中央図書館があり、低い仕切りで区切られた隣には高校生らがおしゃべりするテーブルや椅子もあった。
17:04
左:図書館、中・奥:フリースペース、右:観光案内所
フリースペースの向こうの外は、芝生のイベント広場になっている。
左奥はホテルのようだ。

ここの観光案内所でもらった地図で、近くの本間美術館という広い敷地が目に入った。
もう夕方、美術館は開いていないだろうが、本間家の屋敷が見られるかもしれないと行ってみた。
17:15 本間美術館
門は閉ざされ、何も見えなかった。あとで調べたら、ここは本間家の別荘で、1813年築の清遠閣は、庄内藩主や幕府要人を、明治以後は皇族や政府高官、文人墨客を接待する酒田の迎賓館の役割を果たし、1925年には摂政時代の昭和天皇の宿にもなったとか。庭園の鶴舞園は国の名勝に指定されている。

しかし何も見えないので、また行き先を考えねばならない。
時間はたっぷりあるが、疲れてもきた。
バスを使うのは面倒だし、準備不足で目的地もはっきりしない。タクシーを使うにも急いでいくべき場所もない。

酒田というと北前船と本間家しか知らない。
本間家旧本邸が南のほう、1.2キロにあるので歩いていく。途中何か面白いものがあるかもしれない。
17:22
このツタは東京の蔦と同じだろうか。
街はあまり活気がない。

歩いていた広い通りは県道42号で、そのまま真っすぐ行って酒田町奉行所跡の先に新井田川を新内橋でわたると、写真で見たことがある山居倉庫がある。しかし疲れていたこともあり、思い出さず、薄暮のなかで片手で地図をちらちら見るだけでは気づかなかった。
というか、あの倉庫が山居倉庫という名前であることを知らず、また、酒田を歩けば、ああいう景色に自然と当たるのではないかと楽観していた。

山居(さんきょ)倉庫は、明治26年(1893)、旧藩主・酒井家が全額出資して経営に当たった株式会社「酒田米穀取引所」の付属倉庫として建てられた。1939年に取引所は米穀配給統制法によって廃止されたが、倉庫は引き続き財団法人北斗会、庄内経済連(現JA全農山形)と所轄を移しながら使用されてきた。

現在ケヤキ並木の前に12棟が残り、1棟は1985年に庄内米歴史資料館、2棟が2004年に酒田市観光物産館「酒田夢の倶楽(くら)」として改装されたが、残りの9棟は現役の米蔵として使用されているらしい。
行ってみるべきだった。

酒田は北前船の寄港地として有名だが、もっというと庄内米の積出港として有名であった。経済が米を中心に動いていた江戸時代、最上川河口からすぐの新井田川沿いには庄内藩をはじめ最上川流域の諸藩の年貢米を納めた蔵が並んだ。

酒井家・庄内藩では、農政に力を注いだ。米の流通を円滑に行うため、酒井家の鶴岡入部から間もない寛永元年(1624)に、郡代・柴谷武右衛門が、「米券制度」を創始した。
すなわち、家臣の禄米(給与の米)を米券、米札(べいけん・べいさつ)で支給し、年貢米は酒田や鶴岡などの蔵に収納、いつでも米札を米に交換できるというものだった。
さらに米札は米の売買にも利用され、すなわち貨幣同様に扱われ、庄内藩の米札は大阪堂島など全国の市場に流通した。庄内藩は入庫米の検査や品質管理、俵詰めを徹底し、いまの南魚沼産コシヒカリなどのように、庄内米は高い評価を得た。

米券は明治以降、戦前まで使われ、山居倉庫では保管方法の改善にも努め(屋根は二重に、床はニガリを混ぜた塩で固めた)、その倉荷証券は日本一有名な米券になった。銀行の担保物件としても流通していたという。

・・・・
ようやく本間家旧本邸に到着。
庄内の本間家といえば、殿様の酒井公より有名であろう。
「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われた。
17:34
本間家旧本邸

本間家は鎌倉時代の佐渡の守護代、佐渡本間家の分家である。
1672年、川村瑞賢が西廻り航路を開いた後、1689年、本間久右衛門が酒田で「新潟屋」の暖簾を掲げ商売を始め、その息子あるいは番頭といわれる本間原光を初代とする。以後、当主は代々「光」の字を名に入れ、財を成す。得た利益を元に土地を購入。田地を拡大していった。北前船交易の隆盛もあり三井家・住友家に劣らぬ大商家となり、東北の多くの大名家から借入の申し込みを受けその要請に応えた。
3代当主・本間光丘(みつおか)は、庄内藩の財政再建に取り組んだほか、防砂林の植林を進めた。今でも防砂林は酒田の航空写真で目立つ。

本間家の所有する田畑は最盛期には3000ヘクタールにもなり、山林をのぞいた平地では日本一の大地主となった。戦後GHQによる農地解放で1750ヘクタールあった農地はただ同然で売られ、本間家には4ヘクタールのみが残った。

3000ヘクタールというのは、100mx100m(=1ha)のグラウンドを3000個であるが、30平方キロ、つまり5キロx6キロメートルの方形に等しい。
山手線の内側の面積が63平方キロ、文京区の面積が11平方キロであることを思えばよい。本間家の土地は後楽園ドーム638個分と言われるが、文京区3つ分のほうが分かりやすい。
 
17:35
ここの本間家本邸は、もともと1768年、本間家3代当主・光丘が藩主酒井家のため、幕府巡見使(将軍の代替わりのときに諸国の大名の情勢調査のために派遣した役人のこと)のための宿舎として建てた。長屋門に平屋書院造り、二千石クラスの旗本の武家屋敷の格式を備えている。

その後拝領し、本間家代々の本邸として使用されたのち、戦後は1949年から1976年まで酒田市中央公民館、1982年からは観光施設として公開している。

酒田というと大火事があったことを思い出した。
新聞の写真を覚えている。子供のころの話かと思ったら、意外と新しく1976年だからもう東京に出てきていた。1960年以降としては最大で、一般人に犠牲者は出なかったが(消防長が一人殉職)、22.5ヘクタールが焼けた。
いま焼失地域を調べたら、火はこの本間家本邸のすぐ北まで迫っていた。公民館としての使用をやめたのも1976年である。

(まだ続く)

0 件のコメント:

コメントを投稿