ここ数年、年末は一人で29日に信州中野の実家に行き、31日に戻って独り暮らしの叔父と年を越し、元旦に妻の実家(取手)で家族と合流するというパターン。
12月31日朝8:20、立ヶ花駅は寒かった。
1972-75年の3年間ここから高校に通った。
進学して東京に行っても、就職しても、実家の近くの長野電鉄信州中野駅ではなく、この駅を使った。
昔は、写っていないが左に鉄橋があって利用者は皆、千曲川の向こうに自転車を置いて歩いて渡ってきた。こちらには山と川に挟まれて線路とホーム以外、駅の敷地がなかったからだ。(川のこちら側は人家がなかった)。
列車は6時、7時、8時台に一本ずつしかないため、飯山・野沢方面から長野へ行く高校生のほとんど全員(と通勤客)が立ヶ花7:24(まだ覚えている!)の列車に乗った。
毎朝、橋を走ってくる人が良く見えるから車掌さんはいつも待っていてくれた。改札口もない無人駅だから線路を越えて飛び乗る。その橋は長野オリンピックで下流に付け替えられ、こちら側に自転車置き場もできたから、今は走って川を渡る人もいない。
写真の正面に小さく見える橋は北陸新幹線。
景色は少しずつ変わっているが、千曲川は昔のように流れている。
左に見える対岸まで中学の通学区域だった。中学時代は、よく写生遠足に来た(もちろん冬じゃないよ)。中学から5㎞近くあるから美術(2コマ)の時間ではなくて遠足としてあったのだろう。この川を二回描いているし、浜津が池で描いた記憶もある。写生遠足は年に何回もあったのだろうか。
写真右側は山になっていて上に蟹沢神社があった。
写生のときは、そこを中心に皆勝手に散らばって描く。私は線路を渡り、藪をかき分け崖を下り水際まで行った。今なら危険とされることも当時は放任だった。出席も取らなかったから対岸の自宅に帰っちゃった者もいただろう。
写生のときは、そこを中心に皆勝手に散らばって描く。私は線路を渡り、藪をかき分け崖を下り水際まで行った。今なら危険とされることも当時は放任だった。出席も取らなかったから対岸の自宅に帰っちゃった者もいただろう。
善光寺平はここで終わり、このあたりから千曲川は信越国境まで谷を縫っていく。河原のない大河は近くによると恐ろしいほどの圧倒的な水量だった。それを描こうとしたのだが、技術がなくて、ただ濁った灰色の大きな画面が出来てしまい、アクセントとして草や朽ちかけた杭を入れた。それを翌週だかの品評会で美術の山岸琢磨先生に褒められた。それで2つ目のクラブとして美術部に入った。(1つ目が剣道、3つ目は将棋だった)
翌年も千曲川を書いた。しかし先生は通知表だかどこかに「描写力はあるが新鮮さが欲しい」と書いた。それでも彼は3年間高く評価してくれた。高校に行くと芸術選択は迷わず美術にしたのだが、高校の先生は私に何も言ってくれなかった。いつしか絵を描くのを止めた。
子供、学生を誉めることの大切さがよく言われるが、親になって30年、教育職について4年、昔を思い出して今になってそのことに気が付いた。
書いてあることよりも自分の経験のほうが説得力があるという例。
千駄木菜園 総目次
書いてあることよりも自分の経験のほうが説得力があるという例。
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