2017年1月1日日曜日

第93 爪哇に於ける機那の収穫

薬学雑誌1890年度(明治23年)262

爪哇はジャワと読む。
インドネシアの首都ジャカルタがある島だ。当時はオランダ領東インドの中心だった。ここで取れる機那(キナ)についての外国文献(Archiv d. Pharmacie Nov. 1889)を細井修吾が訳して紹介した記事である。


キナの樹皮はキニーネを含む。
17世紀以来マラリアの特効薬だった。植民地を持つ欧州諸国、自国にマラリア流行地を持つアメリカで、キナは最も重要な医薬品だったが、供給が需要に追い付かず、有効成分の研究は早くから行われた。キニーネは1820年に単離されたがその後は難航を極め、分子式が1854年、平面構造、立体構造が決まったのはそれぞれ1908年、1944年である。

構造が決まらなければ合成はできない。
1856年、18歳のウィリアム・パーキンは決まったばかりの分子式だけを頼りにキニーネ合成を試みるうちに、初めての人工色素モーヴができ、億万長者になったのは有名であるが、キニーネ合成は夢のまた夢であった。

その貴重なキナの生産は長らく南米に限られていた。
南米各国政府がキナの苗や種の輸出を禁じたからである。しかし1853年オランダ人ハスカールは種を密輸してジャワに植えた。イギリスも密輸してインド、セイロンに植える。ところが両国の植えたキナはキニーネ含量が少ない種類で、生産コストに見合う収穫が得られなかった。1861年、オーストラリア人レジャーはボリビアのインディオを説得し、含量の高いキナの種を買う。イギリス政府は興味を示さなかったが、オランダは1ポンドの種を20ドルで買いジャワに植えた(拙訳『スパイス・爆薬・医薬品』)。

その27年後がこの薬学雑誌の記事である。
それによれば1888年度のジャワにおけるキナ樹皮の収穫高は370,899㎏であり、このうち1,109㎏は蘭印駐在オランダ陸軍が消費し、残りはすべてオランダに送ったという。当時はアスピリンやサルファ剤の登場前であり、キニーネは広く熱病にも使われた。(マラリア原虫が患者血液から発見されたのは1880年、蚊の関与が報告されたのは1897年だから、マラリアも熱病も区別できなかった。熱病には効いたようだが、万能薬として消化不良やがんにも使われたらしい)

蘭印でのキナ生産は年々増え、1930年には全世界のキナの95%がジャワのプランテーションで作られた。第二次世界大戦が始まるとオランダのキナ倉庫がドイツに抑えられ、ジャワは日本が占領した。

これに慌てたアメリカは、南米で自生キナを探す一方、キニーネの部分構造に着目し4-アミノキノリン誘導体の研究を進め、1943年クロロキンに行きつく。戦前にドイツで合成された化合物であるが、太平洋戦線のアメリカ兵は大いに助かった。

NCBIのHPから
  https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pccompound/



千駄木菜園 総目次

0 件のコメント:

コメントを投稿