向丘寮、向ヶ丘寮と書くと会社の寮みたいになる。向ヶ岡か向岡だな。
ここに寮があった。
2003年に閉鎖され、今はフェンスが張られて、たしかアブルボアというレストランが入ったファカルティハウスになっている。
1977年12月、駒込神明町(本駒込5丁目)のアパートを出て、翌月、谷中真島町(谷中2丁目)に引っ越すまでのわずかな期間、寮生だった。
突き当り正面が入口、手前左側は平屋で、法学部の人がいた6畳和室へ転がり込むように厄介になった。私は布団を出した押入れに体を半分入れ、彼はコタツで寝た。冬休みもあったから、暮らした日々も、覚えていることも僅かだ。彼は健全な若者らしく女性の話ばかり記憶にある。寮食は1晩だけ覚えている。おでんだった。根津でみかん6個入りパックとお菓子、週刊ポストか文春の年末年始特大号を買って坂を上ったこと。駒寮時代の友人レスリング部S君の部屋へ行く古い木造の階段は冬の日が明るかったこと。
この寮は1949年に建てられたというから、今思うとそれほど古くはなく、もちろん一高とは関係ない。
寮の敷地つまりフェンスの向こうは、水戸家中屋敷から一高、東大になったと思っている人が多い。しかしちょっと違う。
寮のあたりは戦前、民家があって、その南(言問道り側)には佐倉の最後の藩主、堀田正倫伯爵(幕末の老中・堀田正睦の四男)の邸宅もあった。
寮のあたりは戦前、民家があって、その南(言問道り側)には佐倉の最後の藩主、堀田正倫伯爵(幕末の老中・堀田正睦の四男)の邸宅もあった。
国会図書館デジタルライブラリー「東京市及接続郡部地籍地図」(大正元年)をみると、東大は、根津神社南のS坂途中から弥生坂上の暗闇坂との合流点(今の三叉路)まで引いた直線の西側である。寮すなわちファカルティハウスの西側で少し高くなっている崖線が境界と考えてよい。
明治11年内務省地理局作成「実測東京全図」をみると言問い通りはなくて(弥生坂の道は明治28年開通)、水戸屋敷の土地は3つに分けられたようだ。
南西部は加賀屋敷にくっついて文部省用地、残りは南北に直線が引かれている(ちょうど上記の直線に一致?)。線の西部分は陸軍省用地の文字が見えるが、南の池之端まで広がる東部分は空白。
明治16年参謀本部「五千分一東京図測量原図」をみると西の部分には東京府癲狂院と避病院が見える。何も書いてなかった東部分は、北方は桑、茶、荒、といった文字が散在し、南方には東京共同射的会社と弥生社がある。
この東部分に明治20年、芸州浅野家が永田町から移ってきた。一高が西の病院部分に来たのは明治22年である。
浅野家は東大浅野キャンパスだけだと思っている人も多いが、根津小学校上から池之端の境まで、今の言問通りの両側にまたがる広い弥生町の大部分が浅野家のものだった。浅野キャンパスは本邸の敷地部分であり、周辺は数人に貸し、さらに彼らが家を建てて大家となり店子に貸した。住んでいる人は西片同様、学者が多かった。
向ヶ岡寮の場所に子供のころ住んでいた太田博太郎(1912-2007、建築史)の回想が地域雑誌『谷中根津千駄木』53号(1998)にある。父上は東大法を出て上野の帝国図書館に毎日歩いて通っていらした。西隣りは帝大生にドイツ語を教えていたエルザ・マルクワルト氏という。
寮のある部分を含む農学部の東側と、本邸のあった今の浅野キャンパス部分は、長与又郎総長時代(1934~38)に東大が拡張するとき浅野家から譲渡された。昭和12年の東大農学部鳥瞰図 http://www.a.u-tokyo.ac.jp/history/gallery4.htmlをみると野球場もでき、ほぼ今の敷地の形になっている。弥生町に広がる多くの貸家も戦後、浅野家から分譲されたという。
ネットで向ヶ岡寮を探すと、駒寮以上に奇人変人譚、密度濃い生活ぶりが出てきて、懐かしく思う。ところがみると80年代、90年代の話だったりするから、70年代はもっとすごかったであろう。
私は平凡だったから彼らとやっていく自信はなく、1978年1月の晴れた日、薬学部の用務員さんからリヤカーを借り、K君に手伝ってもらって谷中に引っ越した。布団と服、本などを積み、異人坂か弥生坂を下りたはずである。机と本棚は6畳二人部屋に入るわけないから、どこかに預かってもらっていたのだろうか、39年前のこと、記憶にない。
あのまま寮にいたら性格行動すなわち人生観も交友関係も全く違う人間になった気がする。
弥生1
弥生2
弥生3
千駄木菜園 総目次
あのまま寮にいたら性格行動すなわち人生観も交友関係も全く違う人間になった気がする。
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