吉祥寺は大きい。
北の方には墓じまいをした墓石が集められていた。その西は石塔が何基も傾きながら並び、歴史を感じさせる。
薩州在島津氏と刻まれた塔は、土台が崩れ倒れる寸前だった。
日本医大、順天堂医大の解剖実習に献体された人々の慰霊碑もあり、見るところが多い。
何の予備知識もなく墓石の間を歩いていて、ひろい柵に囲まれていた墓が目についた。
ばらばらに3つあった。みると榎本武揚、赤松則良、佐藤進である。
このたまたま見た3人、偶然だろうか。
・榎本は、戊辰戦争で幕府海軍を率いて函館まで行って抗戦した幕臣。明治政府にも仕え逓信、外務、文部、農商務大臣を歴任、子爵。
・赤松も、幕臣。数学、物理に優れ、横須賀造船所長、海軍中将、男爵。長女登志子は森鴎外の最初の妻である。
・佐藤進は、佐藤泰然の養子である佐藤尚中のさらに養子。順天堂医院院長。陸軍軍医総監(中将相当官)。男爵。
3人の関係は、まず、赤松と榎本は、文久2年に同じ船でオランダへ留学した。このとき佐藤泰然の孫、林紀(はやしつな)も一緒に留学し同じ釜の飯を食べている。3人がつながった。
そして林紀の二人の妹、すなわち佐藤進の養祖父、佐藤泰然の孫である多津が榎本と、貞が赤松と結婚、親戚となる。とくに赤松家と榎本家は夫人同士が姉妹でもあったことから仲が良く、吉祥寺で法事も一緒にやったとか。
谷根千78号(2004)に赤松則良の孫、赤松正枝さんと森まゆみ氏の対談がある。則良の葬儀のときは、千駄ヶ谷の自宅から海軍の一個分隊が出て吉祥寺まで列をなして行ったという。
離縁された登志子の実家側から見た森鴎外家の話が面白かった。
赤松、榎本、佐藤、林に西周(オランダ留学で一緒、林紀の弟を養子にとる)を加えたグループは、姻戚関係もあって親密であり、西周は森家の親せきで、鴎外の保護者でもあった。森鴎外は最初、一世代前の彼ら幕臣留学生グループについていた。彼らは、登志子を通して鴎外にとって叔父たちの位置である。しかし榎本が山縣有朋と合わずに文部大臣を辞任するなど、出世のためにはよろしくなかった。長州閥が幅を利かす時代、登志子との離縁は好都合だったという話は、興味深い。
森家も近くの千駄木なのだから、ここに墓があったら面白いのに、と思って帰宅したら、林紀の父、林洞海(佐藤泰然の娘婿、佐藤進の義理の伯父、榎本、赤松の義父)の墓も、ここ吉祥寺にあることが分かった。また行かなくては。
2017-1-9
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