薬学雑誌 1905年度p1092-93 (明治38年)
帝大薬学第二講座(衛裁)の初代教授、丹波敬三は、摂津の蘭方医,元礼の三男に生まれた。兄たちが開国直後の神戸で実業界に進んだため、平安時代の丹波康頼につながるという日本最古の医家、丹波姓の医薬関係者は彼だけであった。
第2話で少し紹介したが、丹波は日露戦争最中の明治37年9月欧米に外遊し、38年6月帰朝した。このとき、北豊島郡上駒込に三年がかりで屋敷を新築中であった。多忙の丹波に代わり、夫人が弓町の自宅から本郷通りを北へ4.2㎞、徒歩50分の道を現場監督に通ったらしい。
今のJR駒込駅のすぐ北、本郷通りが霜降橋に向かって下り始める妙義坂の東側、加塚医院、藤和マンションのある区画である。入口は坂が下り始める方にあった。敷地東側が崖である。
ようやく完成した11月12日、小春日和に紅葉が映える三千坪の邸内で園遊会が開かれた。その記事が薬誌にある。
「・・・座敷、書籍室は開放し、二階には絵画、書軸を陳列し、また酒井、狩野の画伯、席上揮毫するあり
・・・庭の正面には舞台を設け、茶番、歌舞、あるいは書生の素人茶番あり。その間絶えず楽隊の奏楽あり。エビスビヤホールは三か所に設け、喫茶店、ラムネ店、団子屋、寿司屋、蕎麦屋は庭の入口に、おでん屋、てんぷら屋は一段低き崖にあり。ここには酒、飯の用意もあり
・・・てんぷら屋の繁盛なるは非常にて、来客絶える間なく、半煮えなるにも関わらず食し、心配せし人あり・
・・下谷、講武所の老妓は担当の飲食店に引き込まんと奔走するあり
・・・落語家円遊は異様なる衣服をつけ・・・」
「・・・当日重なる諸賓は、久保田文部大臣、清浦内務大臣夫人、木場文部次官、板谷大蔵次官、大隈伯爵、正親町伯爵、石黒男爵、菊地男爵、山川総長、浜尾、三宅の名誉教授、法、医、文、理、工、農科の教授、その他、六百四十余名なりしという」
なお丹波は、つつじの名所、大久保(新宿区百人町)にも別荘を持っていて、ここは次男の次郎氏に譲った。次郎氏は東北薬専卒の陸軍薬務官、日本画家の丹波緑川としても知られる。
この大久保の屋敷で1922年、次郎氏の三男として生まれたのが、俳優の丹波哲郎である。
この大久保の屋敷で1922年、次郎氏の三男として生まれたのが、俳優の丹波哲郎である。
0 件のコメント:
コメントを投稿