2017年6月11日日曜日

西日暮里公園は前田家4代の墓所だった

千駄木菜園 総目次


西日暮里駅のホームから見える石垣と緑。
日暮里寄り1号車なら諏方神社かもしれないが、2号車以降は間の坂(あいのさか)と西日暮里公園である。


2017-5-28撮影
このあたり一帯、道灌山という。
この名前は魅力的らしく、不忍通りの交差点近くのマンションまで道灌山を使う。まあ、道灌山通り、道灌山下という交差点名が先にあったからしょうがないんだけどね。
2017-05-28撮影
写っているおじさんは、両手を広げ片足バランスの練習をしていた。
木立の中とか、もっと落ち着いた場所でやればいいのに。

この土地はもと西側にある星雲寺の境内、というか裏山で、金毘羅社などもあったらしい。
廃仏毀釈の明治7年、前田家が購入し、前田家13代目(加賀藩12代目)斉泰から4代の墓所となった。

しかし昭和44年千代田線が開通、すぐ下に西日暮里駅ができ、周囲がにぎやかになった昭和47年、墓は国許の金沢に改葬され、昭和48年荒川区の公園となった、と書いてある。

ここではっとした。
前田家当主の諱は「利」で始まるが、たいてい家光以来の将軍から偏諱を賜って改名する。
なりやすとは家斉のなりではないか。
調べたらやっぱりそうだ。
子だくさん将軍家斉の溶姫が嫁いだのは彼だった。
又左衛門と称し諱を利侯としたが、斉泰に改名した。

東大赤門が溶姫の輿入れでできたことは知っていても、その肝心の前田家当主の名を知っている人は少ないのではないか。
彼は文化8(1811)年に生まれ、明治17年(1884)1月16日死没した。

西日暮里公園に葬られた前田家当主4代とは
13代斉泰、文化8(1811)ー明治17年(1884)
14代慶寧(よしやす)、天保元(1830)-明治7年(1874)
  初名は利住だが、将軍家慶から偏諱を賜った。
15代利嗣、安政5(1858)- 明治33(1900)
16代利為(としなり)明治18年(1885)年ー昭和171942
 かれは旧七日市藩前田利昭の五男であったが、本家を継いだ。南方で戦死。

利為の子、17代の利建(としたつ)は、1908(明治41) - 1989(平成元年)。
すでに西日暮里公園はできている。

なお、彼らは金沢の野田山墓地に改葬された。8.6ヘクタールの敷地に初代利家以来、柵に囲まれた80もの墓があるという。


6月10日、また寄った。
安藤広重、虫聴きの図を見ていたら、たばこの臭いがしてきた。
近くにいたカップルは煙を嫌って遠くのベンチに移った。
彼は、自分の煙草がこれほど嫌われていることに気が付いているだろうか?
せっかく江戸時代の道灌山に思いを馳せる場所が、台無しである。

北の端は道灌山通りの切通し。
つまり、この公園は東、北、西が崖になっている。
道灌山の頂上は通りの向こう側の様である。
下に降りる階段は、歩道橋で開成の上につながる。

降りる途中に靴があった。
自殺? いやそんなわけがない。
開成の誰かがいたずらで置いたのだろうか?
あそこはいじめなどないと思うのだが。

しかし、こんな駅前の景色を見ていて、本当に前田家の墓地だったのだろうか、と疑ってしまう。
なんか証拠がないかな、と探したら、
東京市及接続郡部地籍地図(大正元年)
たしかに、青雲寺の山側、1075番地に墓地のマーク。
やっぱり前田家墓所だったみたいだ。

この地図は面白い。
第一日暮里小学校は諏訪台通りの東側から修性院のところに移転してきたことが分かる。
こういうのを見始めるとあっという間に時間がたってしまう。


千駄木菜園 総目次

0 件のコメント:

コメントを投稿