2017年6月8日木曜日

栃木市・旧県庁址と蔵、巴波川



6月8日、関東梅雨入りも、何とか天気は崩れず。
東武日光線、JR両毛線が合流する栃木駅前は、車社会の北関東によくある景色。
太田などと同様、線路が高架になっている。
蔵の街、小京都、小江戸などと称されるが本当かな、と思う広い道路。
駅前から続くメインストリートは、古い店が残っていても、車中心の街並みでは趣がない。
 しかしメインストリートから中に入ると、なかなかいい感じ。
栃木市郷土参考館は、質屋であった板倉家の200年前の建物。
下は土蔵三棟を改装したとちぎ蔵の街美術館。
年配者4人が静かにスケッチしていた。
巴波(うずま)川に出る。
横山郷土館。
横山家は右半分は麻問屋(いまでも麻は栃木の特産)、左半分は銀行を営んでいた明治の豪商。鯉がゆったり泳いでいる。

県庁跡に向かう道。
草が生えている川はいい。
栃木県庁跡に建つ旧栃木町役場。大正10年(1921)
今写真を見ると「本庁舎は移転しました」という案内がある。
2015年まで市役所別館として使われていたらしい。
入り口が空いているが、中に入れたのだろうか?
時間がなかったから近くに寄らなかった。
ここに来ようと思ったのは、岩船山にいったとき、岩船石が県庁掘に使われていると書いてあったから。

明治4年の廃藩置県は、大小さまざまな旧大名領をとりあえず県にして取り上げ(3府302県)、そのあとほぼ令制国と同じ大きさに統合、今の形になったが、天領、旗本領などはそれ以前に県になっていて複雑である。
下野に関しては、さまざまな県ができ、統合された。宇都宮県があったのに名前は残らなかった。
そのあたり、夢野銀次氏のブログが詳しい。
http://kasiwagura20.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-1588.html
それによれば、明治2年、日光県が真岡県を合併し宇都宮県よりおおきくなり、明治3年には足利藩との村々の交換で栃木町が日光県となる。明治4年、本庁を日光から交通の便利な栃木に移し栃木県が成立、下野は栃木と宇都宮の二県に整理統合された。
翌5年、現在の場所に栃木県の新庁舎ができる。明治6年宇都宮県が編入され、下野一国が栃木になった。

今のように東北線、国道4号もないころ、水運も利用できた栃木町が、今とは比べ物にならないほど豊かで地位が高かったことが推察できる。
しかし明治9年上野国館林三郡が群馬県に移り、栃木が新しい県の南に偏ってしまう。そして明治17年、宇都宮に県庁は移った。県名はすでに定着しており、変更は考えられなかった。
この堀、四方をぐるっと巡っている。昔、幅は5メートルだったという。
一揆を防ぐためだろうか?
廃藩置県は短期的には多くの国民に強い不平不満をもたらし、あちこちで騒動が起きた。
私のふるさと信州中野は天領で、明治3年信濃北半分を支配する中野県ができたが、2000人が一揆をおこし、県庁を焼き、庁舎は善光寺のある長野に移り、長野県が成立した(中野騒動)。

水田であったため、水はけをよくするため掘って盛り土することを中央に届け出たようだが、城郭同様、暴動からの防御と権威づけの目的があっただろう。
北方までずっと伸びる西辺の堀。
この中に旧市役所庁舎だけでなく、栃木中央小学校、栃木高校がある。

山本有三。
当地の呉服商の跡取り息子として生まれた。
路傍の石、は読んだことはない気がする。
「たったひとりしかない自分を
たった一度しかない一生を
ほんとうに生かさなかったら
人間うまれてきたかいが
ないじゃないか」
という一節が駅前に碑となっていた。たしかにそうだけど、一生を生かすとはどの程度立派に生きればいいのか、生まれてきたら既に生きていることではないか、と突っ込みたくなる。

巴波川に戻る。

120メートル続く黒塀は、回漕問屋だった塚田家。
今は歴史伝説館。
遊覧船の中にエンドウ豆のようなものを詰めた小袋がいっぱいバケツに入っていた。鯉の餌だった(100円)。どうりで肥えている。船賃は700円。
堰や水門がある。川を水運に利用するためには水位の調節が不可欠。

下の写真、川の先に見える洋館のようなものは、明治2年創業、片岡写真館。

日光例幣使街道は、毎年朝廷が家康廟の日光まで勅使を派遣したときの道である。中山道倉賀野から日光までの脇街道であり、北関東の街を歩くとしばしばぶつかる。
でも、あれ!?
栃木市のあたりなら西南から来て東北に向かうんじゃないの?
矢印は西北あるいは東南に向かっている。
調べたら、西北から来て栃木市内で急に北に転じたようだ。
https://ssl.gpscycling.net/tokaido/reiheishi.html?p=3


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