2017年6月30日金曜日

お出かけブログ、ご近所の範囲



お出かけブログは
1.ご近所
2.都内
3.遠く
で分類しているが、1と2の区別はあいまいである。

谷中や上野公園など、散歩する範囲はもちろん近所である。
出かけても用事がすんだら歩いて帰ってくるところ、北は巣鴨や染井霊園、南は東大なども近所に含める。東大が近所だとその先、後楽園や神田明神も近所に入れたい。

平塚神社の滝野川体育館は、ダンスの練習で自転車でいくので、そのすぐさきの飛鳥山は近所に入れる。その先の王子の石神井川も近所に入れた。

 後楽園ドーム 2.9㎞
 上野公園噴水 2.3㎞
 東大農学部  1.6㎞
 東大赤門   2.4㎞
 神田明神   3.7㎞(遠いね)
 巣鴨駅    2.3㎞
 飛鳥山    3.1㎞
 染井霊園   2.3km

一方、用事が終わったら電車で帰る大塚や水道橋は、近所にならない。
 大塚駅   3.2㎞
 水道橋駅  3.4㎞
 御茶ノ水駅 3.7㎞
は、近所にならない。もちろん
 神楽坂   4.1㎞
 椿山荘   4.4㎞
は、気持ちの上でも遠い。


浅草 vs 池袋サンシャイン (4.4km)、
上野松坂屋 vs お茶水女子大 (3.2㎞)
前者と後者は同じ距離なのだが、それぞれ後者はずいぶん遠くに感じる。

私の家は本郷台地の東の端、根津の谷に向いているから、小石川・目白台地は近所に思えないのだ。
そういえば、昔、買い物や映画に行くとき本郷区の人たちは上野に出たが、小石川区の人は池袋に出たという。距離よりも日常の行動パターンが近所と他所を決めるのかもしれない。団子坂下から浅草まで小走り往復40分でいったという映画少年(谷根千30号)にとっては浅草も近所である。

森まゆみらの地域雑誌「谷中根津千駄木」の範囲は、谷根千の周囲、南は池之端、東は上野公園と、線路の向こうの根岸、北は山手線の内側、田端の高台、本駒込あたりまで、西は本郷通りだった。
私の近所はそれよりも少し広い。

私にとって不忍池(2.3㎞)をこえ、湯島は天神(3.0㎞)、聖堂(3.7㎞)とも近所という感覚だが、本郷通りの西、白山神社(1.2㎞)、東洋大(1.1㎞)、植物園(2.0㎞)などは近所という気がしない。若いころの住まい、行動範囲が影響している。

それでは今後のブログの分類が不便なので、割り切って文京区は春日通りの東まで近所とする。親しみがなくても、例えば、筑波大、教育の森公園(2.7㎞)、エーザイ本社(2.5㎞)、伝通院(2.7㎞)まで含める。

千駄木菜園 総目次

2017年6月28日水曜日

高い苗のミニトマトは甘いか?

今年はトマト5種類
1.普通のトマト ホーム桃太郎 75円
2.ミニトマト  千果     75円
3.ミニトマト  超スイートミニレッド 267円
4.ミニトマト  シュガーミニ  298円
5.捨てた生ごみから発芽したもの





ミニトマトは非常に生りが良い。ぶどうのようだ。

4倍も高い苗など初めて買った。
生りはよいが、ちっとも甘くない。
75円の苗は熟すとすぐ実が割れてしまうが、一番甘かった。

そもそも名前がおかしい。スイートとかシュガーとか、固有名詞と思えない。出荷する人が適当につけただけで、確立された品種じゃないのでは?

フルーツ(スイート)ミニトマトは品種より育て方のほうが大事かもしれない(水は少ないほうがいいらしい)

隣のキュウリは元気ない・・・



千駄木菜園 (庭・植物のみ)目次 (庭と野菜つくり)

千駄木菜園 (総合)目次 (お出かけなど)

2017年6月24日土曜日

枝豆はいつ蒔くべきだったか?

昨年、枝豆を初めて作った。
ホームセンターで買った苗4本のほかに、ダイソーで買った豆(種)をまいた。

7月に収穫した豆を7/31にまくと、8/2に発芽、10月に実がなった。
(発芽率が悪かったのは、水をやりすぎて腐ったからか?)

2016年
まいた日       まいた種数  発芽日 発芽数 発芽率 収穫
 ?   苗(購入)           4      7/1
5/9    早生(購入豆   ?  5/13  ?      7/24
7/31   苗の豆(収穫豆   8   8/2   1  0.125 10/20

つまり、早く蒔けば1年に2回できるということだ。
そこで、2017年はなるべく早く蒔くことにした。
発芽気温は20度以上ということなので、天気予報をみながら4/4から蒔き始めた。

2017年4月の気温
2017年
まいた日まいた種数発芽日発芽数発芽率
4/4早生10x0
4/4長野84/1510.13
4/13早生64/2310.17
4/19早生104/2950.50
5/1早生10x0
5/12早生145/1830.21
5/17早生165/2330.19
5/17長野165/23110.69
5/17黒豆165/23140.88
5/27長野86/160.75
5/27黒豆66/150.83
6/3長野336/8220.67
6/3黒豆356/8240.69 

早生:昨年庭で収穫した大豆
長野:弟が味噌用に作った大豆
黒豆:弟が煮豆用に作った丹波黒豆

さて、4月は発芽率が悪かった。発芽にも10日もかかっている。
やはり早すぎたのだろうか、と思ったが
5/1, 5/12も悪かった。
前年が5/9にまいたデータしかないので、天候のせいなのか、豆のせいなのか、なんともいえない。
ところが、5/17に3種類の豆をまいて、それまで蒔いていた「早生」に問題のあることが分かった。

結論・反省
データなし。
黒豆、長野の豆も4月からテストするべきであった。

2017-06-11
6月3日にまいたもの

2017-06-11
4月に蒔いたもの


2017-06-24
すべて地植え終了。
2017-06-24
4月に蒔いたものは少ないけど実がなっている。

2017-06-11
落花生は昨年収穫したものを5月3日にまいた。発芽率良好。

6年前の庭との比較



今の家はとても気に入っている。
千駄木の訳あり借地権付き庭広中古住宅。
引っ越してきたのは2013年4月だが、初めて見たのは2011年7月である。
(なぜ2年間かかったかはいつか書く)
大きな二世帯住宅だが、西側の一部分にお一人だけ住まわれていて、実際、廃屋のような、不思議な家だった。

それから6年、藪のようだった庭は菜園となった。
昔の写真があるので、今と比較してみる。
2011-07-24
住んでいる形跡がなく、庭は薄暗くて、やっと足を踏み入れたが、自動的にフラッシュが光るほど。

2013-05-13
業者に木を切って掃除してもらったら、こんなに明るくなった。
引っ越して1か月後、洗濯物も干せるようになりました。

2017-06-24
さらに4年後、同じ位置からの写真。
木は毎年小さくしているから、葉っぱの位置も下がっている。
菜園というのは散らかるものだ。

同じく東側を見ると
2011-07-24
壁にはツタがはい、鳥が運んできた種から出た棕櫚などが密林を作っている。

2017-06-24
棕櫚は5年間で大きくなったが昨年伐採した。
中央のハナミヅキ、右の山茶花も小さくした。

2013-05-13
やはり家庭菜園をしないほうがすっきりしている。

2011年は植物によって家が包まれていた。
2011-07-24
2011-07-24
烏瓜をはじめ、二階のベランダまで植物が侵入していた。
2011-07-24
このあと11月頃に持ち主が桜を中心に剪定された。
2012-10-15
これは二階東側の部屋から。
生垣だったカイヅカイブキも手入れをされずに上部は伸び放題、下部は藪に覆われていた。


初めて見てから1年後、2012年8月に自分のものになった。
2012-09-01
覆いかぶさっているのは金木犀。白壁にツタの張り付いた跡がいっぱい。

2017-06-24
5年後の今はすっかり明るい家になりました。

2012-10-15東南をみる。
晴れて自分の家になったので、このころしばしば見に来ました。
リフォーム会社を選定している頃かな。
それにしてもジャングルの中の家という感じ。
左側奥に見えるのは桜。前の年に大きく枝を落としてもらっている。
右にターザンがつかまる太いツタのようなものがある。この植物は何だろう?

2017年6月の同じアングル。
前の家々が見えるようになりました。
2012-10-15 西南方向
ハナミズキがベランダにかかり、満開の金木犀が平屋部分の屋根をすっぽり覆っている。右の、屋根の向こうの大木らしき緑はモミジである。

2017-06-24 同じアングル

下に見えるのが金木犀。
毎年植木屋さんに少しずつ小さくしてもらって、30分の1くらいになったかな(3分の1の3乗)。植物というのは枝を切ればいくらでも小さくなることが分かる。
屋根の向こうに小さくしたモミジがわずかに見える。

2011年のGoogle 航空写真があった。
紅葉した桜の巨木は二階の屋根を覆っている。
(左から)もみじ(茶色)、きんもくせい(緑)、山茶花(黄緑)、桜(最大)、ザクロ(桜の北、緑)は、庭や屋根どころか、道を覆い、隣家の敷地まで枝を出している。
さぞかし迷惑だったに違いない。


千駄木菜園 総目次

2017年6月23日金曜日

東大2 医学部一号館は空っぽだった

6月23日、調べ物で東大に来たついでに医学部一号館(旧館)に寄った。
この建物は関東大震災のあと建てた頑丈なものだったが、80年代になると実験スペースが狭くなり(といっても基礎医学の講座ばかりだったから人はいなかった)、かつ古いということで、その真ん前に高層の新館を建てる計画ができた。

1987年私がいた頃、聞いたところによれば、空き地だった薬学部との間に建てて、旧館は取り壊し、工学部1号館(建築学科)から三四郎池、医学部本館前庭園、(旧館跡地の新設緑地)、懐徳館に続くグリーンベルトを作る話しだった。

ところが出来上がると、旧館は残り(私は嬉しかったが)、薬学部との間の花壇のような空き地がまったくなくなり、ずいぶん窮屈なキャンパスになってしまった。

で、新館から入ると、そのまま裏に抜けられて旧館の東口に直結。

旧館正面玄関 2017

1階、薬理実験室 2017
ここで骨格筋の単一筋細胞single fiberを単離した。

ここは2012年にも写真を撮っている。
2012-11-14
5年前の方がまだ人はいた。
2012年のこの日は、このあとカポペリカーノで小林松男氏と食事した。
息子が質問したいというので5分ほど会わせた。

さて2017年ひと気のない建物を歩く。
林春雄

3階302から見下ろす。
1987年、Cincinnati大学Schwartz教授がきたとき、3階の教授室から地下の実験室に案内した。もちろんエレベーターはなく、帰りは老齢のお体にきつかっただろうが、Good Exercise! と言ってくださった。

N302 薬理第2教室、オフィス

3階 講義室

2017年6月、総合図書館が工事中で、学習スペースがこちらになったという貼り紙。
確かに、覗いたら実験装置などを撤去して教室のようになった元実験室に、一部屋一人くらいずつ、勉強している学生がいた。
旧一号館はほとんど空っぽになっているのだろうか。

そういえば私も図書館でよく勉強した。もちろんエアコンはなく床置きの扇風機だった。

トイレ。昔はタイル壁だった。
駒場寮の時もそうだったが、震災後にできた建物は、トイレが広くて気持ち良かった。
医学部の動物実験棟。
ここは薬学部でも使えた。1979年ころ、セファロスポリン生合成中間体のラジオイミノアッセイをしようと、この中でウサギに抗体を作らせた。
薬学部西側
昔はこんなに高くなかった。上に増築して耐震補強をしたようだ。
この右手奥に平屋の物置があって、学生実習の実験器具が保管されていた。
ガラス器具を壊すと謝りながらもらいにいく。
1978年正月、そこでリヤカーを借りて、弥生の向岡寮から谷中まで引越しをした。


宮仲公園の歴史。真宗大学、養育院からがん研まで



キーワード
丹羽藤吉郎、渋沢正雄、癌研、養育院、廃兵院、家庭学校、
福祉、教育機関が集まった巣鴨の一角

6月23日。
梅雨の晴れ間、北大塚三丁目交差点
家から3.8km。
王子の石神井川が3.7㎞、自転車でよくいくのでご近所に含めたが、こちらは電車で来るので近所という感じにならない。しかし2013年以来近くに用事があって毎年来る。
さて、この交差点に宮仲公園がある。
新道(宮仲公園通り、都道436号)ができたせいか、道路に囲まれた島のようになっている。
この新道はかつて、がん研通りといわれたが、2009年に改名されたらしい。通りや坂の名前ってなかなか変わらないんだけどね。
めまぐるしく変遷した跡が公園に碑として残されている。
まず、明治34年に開校した大谷大学(旧真宗大学)。
場所はこの公園ではなく、少し南へ坂を上がったところ。
真宗中学はここからすぐ北の今の都立文京高校の場所にあった。
碑は平成12年建立
1911年(明治44)、京都に移り大谷大学と改称。
その後、渋沢邸となった。
昭和13年、渋沢正雄氏が二百余坪を東京市に寄付、この公園となった。その碑は昭和16年である。
でもこの公園は渋沢邸敷地から離れている。
古地図では一般民家があったような感じ。地主として貸していたのかな?

昭和18年皇后行啓、防空訓練視察の歌碑もあるが、全く読めない。万葉仮名のせいでもない。

がん研はこの公園の西にあった。
癌研附属病院が新道に面してあったが、2005年有明に移転し(ちなみに築地の国立がんセンターとは別)、いまはレジディアタワー上池袋という大きなマンションになっている。4棟あり、一つの下にはピーコックストアが入っている。
このマンションに隣接する南には上池袋東公園がある。
ここは癌研の化学療法センターだった。
薬学の同級生M君が以前いた。

この公園に家庭学校跡という案内板があった。

設置したばかりで映りもきれい。
以前から古地図を見るたびに家庭学校って洋裁なんかを教えていたのかと思っていたが、不良少年の感化教育施設だったとは、この日初めて知った。
この公園の南に隣接して巣鴨中学・高校がみえる。
ここ数年で校舎がすっかり新しくなった。以前と比べてだいぶ進学実績が落ちているところへ少子化の波が襲った。進学校としてかつての位置に戻るには、志願者を増やさねばならない。学校見学の時のお母さま方に受けがいいよう設備を充実させ、ライバル校に勝たねばならないのだが、苦戦しているようだ。

さて、家に帰って古地図を確認した。
1957(昭和32)建設省地理調査所

これはほぼ現在の形になっている。
左の巣鴨学園と中央の文京高校、都電などが目印になる。
左上の斜め広い道が明治通り。
宮仲公園があって、癌研附属病院がある。
文京高校は学校が二つあるかのように二分されている。校舎の形も違う。

さて、ぐっと遡り、真宗大学があったころ。
1909(明治42)大日本帝国陸地測量部

京都移転は明治44年だが、真宗中学はない。
折戸通りのもとになった折戸という地名がある。

右下に見える廃兵院は、日露戦争後に重度負傷兵の収容施設として渋谷に開設され、1908年この地に移転してきた。今は住宅地になっている。

地図中央、文京高校の場所は養育院分院。
養育院は明治5年、困窮者、病者、孤児、老人、障害者の保護施設として本郷加賀屋敷跡に設立された。神田、本所など各地を移転した後、大塚(小石川区、今の大塚病院のところ)に移った。
1909(明治42)大日本帝国陸地測量部
中ほど上部に養育院(本院)がみえる。
この地図には左上に巣鴨監獄、左中ほどに陸軍埋葬地と護国寺、その下に盲学校と永楽病院、音羽の谷を越えて東に兵器支廠(お茶大は1932(昭7)年に来た)、高等師範学校(1903年移転)、その北に伊達邸(たぶん宇和島)などもみえる。

さて巣鴨に戻る。
その養育院の分院が明治42(1909)年、ここに建てられた。本院が大正12年9月(震災の月)に板橋大山に移転したあとも分院はここに残った(下の地図)。
養育院は名前が老人医療センターとなって、今は東京都健康長寿医療センターという。一方収容されていた子供たちの方は1942石神井に移転、石神井学園となった。

東京都老人医療センターに付属していた都立老人研には思い出がある。
学生時代(1980年ころ)、NMRのサンプルを持って板橋大山まで行ったことがある。
当時60MHzのNMRしかなかった薬学にもようやく100MHzのFT-NMRが入り、C13のNMRが取れるようになっていた。しかし私の研究テーマは非常に高い分解能の装置を必要とし、当時関東で最も高性能だった220MHzをもつ先生との共同研究となり、頼みに来たのである。

電車賃がもったいなくて成増から本郷まで通っていた先輩から定期券を借りて出かけたところ、池袋駅で丸ノ内線から東上線に入るべきところを間違えて国鉄の改札口に入ってしまった。当時は自動改札でなかった。何もやましさを感じず堂々と入ったから、駅員も気が付かなかったのである。こちらは間違いにすぐ気が付いたが、さて、今度は怖くなって出られなくなってしまった。もちろん定期で入ったことは絶対隠さねばならない。
どうやって出たか、落ちている切符を拾ったのか、切符をなくしたと嘘をついたのか、老人研に時間通りついたのか、先生の名前は誰だったか、NMRの装置はどうだったかの記憶は全くない。ただ、改札口の風景だけ覚えている。

さて上の地図に戻ると、真宗大学は宮仲公園から離れた南の高台にある。
下に昭和の地図がある。
1932(昭和7)大日本帝国陸地測量部

1929(昭和4)東京逓信局、小林又七

大谷大学跡地が渋沢邸になっている。渋沢栄一の三男、正雄氏である。
昭和4年の地図にはあるが、昭和7年発行の陸地測量部には書いてない。
この地はのちにJR大塚アパートとなった。

現在、この跡地にはJRドルミエール大塚とグランフォート青淵閣がある。青淵とあるのは栄一もここにいた時期があったのだろうか? 養育院の院長を56年も務めたというから、飛鳥山にいても、すぐ近くの分院に立ち寄ることもあったかもしれない。
正雄氏は夭逝した男子を除くと、渋沢栄一の三男である。帝大法科経済をでて実業家として活躍した。長男の放蕩で渋沢栄一の家督を継ぐかと思われたが、長男篤二の子、敬三氏が祖父・栄一の後継者となった。

学校がずいぶんある。
巣鴨中学の北東、上池袋東公園は家庭学校ではなく、豊島女学校とある。これが分からない。豊島岡女子高校は、牛込から直接現在地に来ているし、都立豊島高校はもと女学校とはいえ、府立第十高女であって、この名前ではない。豊島高等女学校は確かにこの地にあったのだが、廃校になったのだろうか?

今の公園、つまり豊島高等女学校の前に家庭学校の農園であった地図もある。しかし家庭学校跡地は、がん研病院になったのだから、案内板はレジディアタワーマンションのところに作るべきであろう。

家庭学校の北西には帝国小学校、幼稚園がある。教育勅語に反発した西山哲治が子供の自主性を尊重して開学した。

その北東、谷端川のそばの巣鴨高等商業学校は、戦災で焼け、千葉国府台に移って千葉商科大学と名前を変えた。

昭和家政女学校というのもある。(不明)

地図にはないが、明治女学校も飯田橋から明治30年にこの地に移って41年廃校となった。跡地は東大運動場となり、いまの東大の豊島学生宿舎のあたりである。
大正大学長谷川良信が1919年開いた、マハヤナ学園もあった。その子供たちが多く住んでいた二百軒長屋は、1932年の地図の一番上、端に見える。

芥川製菓工場というのはチョコレートの芥川だろうか? でもHPでは日本橋から駒込に来たとある。
それにしても、ずいぶん学校が集まっている場所だったようだ。

さて、上部中央、川の東側に丹羽邸とある。
東大薬学の第一期生で卒業後に助手に採用された3人の一人、丹羽藤吉郎である。年長の下山順一郎、丹波敬三が留学中に薬学科が廃止になりそうになって、一人で頑張った話、また薬学のために自分がポストを辞退して、長井長義を招いた話などが有名である。

丹羽邸の敷地はふつうの住宅地になっていて、何の面影もなかった。



千駄木菜園 総目次