6月3日の続き。
東大西門をでると瀟洒な住宅街。本駒込や西片よりきれい。
駒場公園南口を過ぎて少し歩いた右角に日本民芸館がある。
1936年柳宗悦が自邸隣に開設した。
日本各地の焼き物、染織、漆器、木竹工などがあるらしいが、あまり興味がないのと入場料が高かったので入らず。向かいの西館はのちに栃木から移築したものらしい。
民芸館西館を過ぎると東大駒場第二キャンパス。
昔はここに宇宙航空研究所があった。
当時寮の各部屋では看板を出すのが流行っていて、交通標識や有名飲食店の看板などとともに宇宙航空研の立派な木製標札を出している部屋があった。盗んできたのか不要になったのをもらったのかは知らない。この場所について私が知っていることはそれだけである。
ここで、昔の駒場の範囲を出しておく。
駒場農学校、のちの帝国大学農科大学は18万坪。
当時の正門は北の上原のほうにあった。
(のち、渋谷に近い東はし、渋目陸橋のほうに移動)
東大農学部の歴史http://www.a.u-tokyo.ac.jp/history/history1.htmlより。
(明治30年、このときは16万坪)
沢が三本あり、一番東は養魚池として使われた。今の東大東端の一二郎池である。
中央の沢は今、東大西端のテニスコート。
これと西からくる沢との合流点が、満留賀(そばや)、東大駒場前駅西口などの低地である。
つまり井の頭線の南、駒場野公園から第二キャンパスまで広がっていた。
昭和50年、私が住んでいた頃は西からくる沢には教育大の水田(ケルネル田圃)が残り、一方の東も山の手通りの渋目陸橋までは民間住宅と東大の敷地がモザイクのようになっていた。
さて、1924(T13)、駒場の東大農学部と本郷弥生の一高の敷地交換が決まる。
1926(T15)には、赤門入って右側の前田邸敷地10,606坪と東大側5万坪(駒場の4万坪と代々木演習林1万坪)を交換した。本郷の地価が5倍だったということか。それとも前田家が本郷を離れたくなくて、東大側が相場以上のものを提供したのか。
同時に深川越中島で震災の被害を受けていた東大付属航空研(のち宇宙航空研)も駒場へ移転が決まった。
農学部の移転は1935年ころまでかかったが、帝国大学農科大学付属の農業教員養成所は、この地に残り1937年東京農業教育専門学校として独立した。のちの東京教育大農学部である。
その前田邸と航空研の間の道を北に、高級そうな住宅を見ながらあるき、ぐるっと回って北側から目黒区立駒場公園に入る。
正門西隣に公開されていない一角があり、前田育徳会というところが管理しているらしい。
公園正門はもちろん前田邸の正門だが、工事中で覆われていた。
ここは少なくとも過去に二回来ている。
しかし最後に来たのは35年以上前。
昭和4年(1929)に完成した洋館も工事中。
近代文学館は、入ったことあるかどうか記憶にない。
前田邸和館。初めて見た。
あるいは見たけれども、当時は興味がなくてまったく記憶に残っていないのだろうか。明治の殿様が住むにふさわしい。
もっとも前田家は洋館にすみ、ここは外人客接待用だったそうだが。
当主の前田利為侯爵(1885- 1942)は陸軍中将、ボルネオ守備司令官のとき搭乗機が墜落、死亡した。戦後は米軍に接収され、昭和32年に返還された。
前田邸洋館の南は広場になっていて、近所の子供たちだけでなく、奥様方もレジャーシートの上でおしゃべりしていた。
その周辺はジャングルである。
思ったこと。
1.目黒区はこれを維持できるほど豊かな区だ。
2.前田家はなぜ南半分を貸地にして土地経営をしなかったのだろうか。向が岡弥生町の浅野侯爵のように。
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