6月4日、長野の弟が来た。
山岡鉄舟の書を買ったそうで、全生庵をみたいという。
上野や谷中への行き帰り、いつも前を歩いていたが、入ったことがなかった。近くの人はいかないものだ。
寺といえばたいてい江戸以前の創建だが、全生庵は1883年(明治16年)、鉄舟が明治維新に殉じた人々の菩提を弔うために創建したという。私にとって谷中にある数多くの寺の一つに過ぎず、弟に教わるまで知らなかった。
入って右側、鐘つき堂の前に山岡鉄舟之賛
鉄舟は、勝・西郷会談に先立ち、単身で西軍の本拠駿府に乗り込み、西郷と降伏条件を交渉した。
『西郷南洲遺訓』の「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」は、鉄舟を指していると言われる。
と、この碑に書いてあったわけではない(読んでない)。
右の石に「叱られて」の譜面
三遊亭円朝の墓。
落語は知らないので、どういう人かわからない。墓域中央に鎮座する、全生庵殿鉄舟高歩大居士
鉄舟は居士号、通称は鉄太郎。諱は高歩(たかゆき)だから、寺名に自分の名を加えて戒名にしている。さすが創建者である。
その左手前、筆頭家臣のような場所に
石坂周造之墓 同夫人桂子
の墓石がなぜか気になった。
(写真をクリックすると拡大される)
どこかで聞いた名前である。
東芝社長から経団連会長になったのは石坂泰三(1886年 - 1975年)だし、誰だろうと調べると、幕末の志士。
幕臣山岡が浪士組(のち新撰組)を組織したとき、清河八郎らとともに幹部として入隊した。しかし清河の動きを疑った幕府に目をつけられ、清河が暗殺された後、五年間投獄された。
維新後赦免されて石油採掘に乗り出した。静岡相良油田、長野浅川油田(日本初の石油会社とされる長野石炭油会社をつくる。明治14年倒産)のあと、明治7年、越後出雲崎で採掘を始めた。
ああそうか、先月「薬学昔々」で書いている。
http://tkobays.blogspot.jp/2017/05/20.html
さらに石坂は、我々の実家、信州中野に近い飯山の出だと弟が教えてくれた。
(弟は私と別れたこの日の午後、皇居三の丸尚蔵館で、これも中野に近い渋温泉出身の児玉果亭の絵を見たという。石坂は果亭に自分の石油掘削事業の絵を書かせ、天皇陛下に献上したそうだ)
そして夫人桂子というのは高橋泥舟の妹であり、桂子の姉・英子は鉄舟の妻である。鉄舟は石坂の連帯保証人となったから、莫大な借金のため月給の大部分を長年差し押さえられたという。
たまたま見た墓石からいろんなものがつながった。
この調子なら老後は飽きずに暮らせそうだ。
全生庵の西側隣地は低くなっていて、福相寺、立善寺の墓地。
観音台に上ると空が広い。
観音様は平成3年。
北側の森は蛍坂。あの林の向こう、西側は防災広場・初音の森である。
このあと上野桜木まで自転車を走らす。
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